私は福音を恥としません

静まりの時 ローマ1・16,17
日付:2023年10月30日(月)

「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。
(16,17)

 福音を恥としない。
 恥とする、恥ずかしく思う、ということは、それに対しての信頼がなく、どこかに間違いがあり、偽りがある、と思っている、ということでしょう。パウロは、「福音」はまったくそうではない、福音には完全な信頼がある、どこにも間違いがない、胸を張り世界に向かって、これこそすべての人に救いをもたらす神の力である、と大々的に言うことが出来る、といいました。
 なぜなら、福音には神の義が啓示されているからである、と。「義」というのは、正しいという意味です。神さまの正しさが、福音には掲示されている、というのです。福音には神さまの正しさが啓示されているので、私はこの福音を恥としない、胸を張って世界に向かって、ここに救いがある、ということできる、というのです。
 イエスさまに出会う前のパウロも、自分は神さまの義に生きている、と思っていました。聖書(旧約聖書)に語られている神さまのお言葉にしっかりと生きることによって、神さまの義に生きることが出来ると信じていました。神さまの義、正しさとは、罪を犯さず、きちっと御心に生きることである、と信じていました。
 しかしダマスコ途上でイエスさまにお出会いしたときから、180度人生が変わりました。神さまの義とはいったいなんであるのか。それは、罪びとを裁く義、ではなく、罪びとを愛する義である、と知らされたのです。
 義とは関係のことである、と言われます。神さまとの正しい関係に生きること。それが神の義に生きることです。親子の関係において、どんなに親の願う立派な生き方が出来ていても、親との関係が壊れていては、悲しいことです。逆に、少々間違った生き方をしていても、そこに愛の関係があり、豊かな関係の中に生きているのであれば、親は喜ぶものなのではないでしょうか。
 イエスさまに出会う前のパウロは、確かに神の義に生きていたのかもしれませんが、それは神さま抜きの神の義だったように思います。しかしイエスさまに出会ってから、神の義をなしてくださったイエスさまと共に生きる喜びをいただいたのだと思います。

 神の義とは、罪人のために、自らのいのちを十字架にはりつけにすることのできる義なのです。その罪びととは、私たち人間のことです。人間には不思議なことです。しかし神さまにそのようにしていただかなければ、私たち罪びとは救われませんでした。神さまは自らのいのちを捨ててでも私たちを救いたいと思われました。ここに神さまの義があるのです。これこそ神さまの義である聖書は語るのです。ですから義と愛は一つのことなのです。
 この福音にこそ、神さまの力が完全に現れました。

 教会は、この福音を語り続けます。それは神さまの義と神さまの愛は一つであると語ることなのだと思います。

 昨日は礼拝に、たくさんのなすびが持ってこられ、いつものようにみなさんにお分けいただきました。ありがとうございます。今季最後のなすびとのことです。また、午後に、本部の柿の収穫に行きました。今度に日曜日になると思いますが、また皆さんで分けましょう。今年の本部の柿は、味はともかくサイズが少し大いように感じますがいかがでしょうか。

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