静まりの時 イザヤ1・11~17
日付:2023年10月21日(土)
11 「あなたがたの多くのいけにえは、
わたしにとって何になろう。
──【主】は言われる──
わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、
肥えた家畜の脂肪に飽きた。
雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。
・・・
15 あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、
わたしはあなたがたから目をそらす。
どんなに祈りを多くしても聞くことはない。
あなたがたの手は血まみれだ。
16 洗え。身を清めよ。
わたしの目の前から、
あなたがたの悪い行いを取り除け。
悪事を働くのをやめよ。
17 善をなすことを習い、
公正を求め、虐げる者を正し、
みなしごを正しくさばき、
やもめを弁護せよ。」
10節に「聞け。ソドムの首領たちよ」「ゴモラの民よ」とあり、創世記19章に登場する町に向かって語られたようにも読めますが、ここではソドム、ゴモラは比喩であって、当時のユダやイスラエルに向かって語られた言葉です(2章)。当時のイスラエルを、イスラエルと呼ばないで、ソドムやゴモラと呼んでいるのです。
神の国イスラエルは、まことの神さまを捨ててソドムやゴモラのように偶像礼拝の町となっていたようです。その偶像礼拝とは何か。実際にはどのようなことが行われていたのか。まことの神さまへの礼拝はなされていなかったのか。
「わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない」「あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない」と言われているということは、まことの神さまへの礼拝、宗教行事は行われていたようです。しかし問題は「あなたがたの手は血まみれだ」と言われなければならない状態であった。「悪事」がなされていた。悪事とは、公正がなされず、虐げる者が野放しになり、みなしごがほったらかしにされ、やもめが弁護されない、ということであった。つまり社会的な弱者が放置され、社会正義がないがしろにされていた、というのです。
どんなに熱心な宗教的行為が行われていても、義と愛がなければ、その手は血まみれである、というのです。そのようなことで献げられたものを、神さまはお受け取りになることがない、無意味である、それらは空っぽの献げものである、というのです。
真実の献げものをしようとするならば、まず自らの身を聖めよ、善を行え、悪を自分の身から退けよ、と聖書は語ります。熱心な宗教行事が行われいても、そこに義と愛がないならば、それはソドムとゴモラのようである、すなわち偶像礼拝である、ということなのです。
なぜ義と愛がないにもかかわらず熱心な宗教行事を行うことが出来るのか。もしかすると、自らの中の悪から目をそらすための宗教行事であったかもしれません。義とか、愛とかといったものよりも、自らの願望の実現のほうが大切で、それこそ、信仰である、との思いもあったのかもしれません。聖書は、おおよそ自らのいたずらな願望、自己中心こそ偶像礼拝である、と語るのだと思います。
偶像礼拝とはいったいなんであるのか。私が献げようとしているものは、偶像礼拝になっていはいないだろうか。確かにまことの神さまに献げようとしていることではあるが、本当に神さまに献げようとしているのだろうか。それともそれ以外のものに、すなわち自分自身のへんな栄光のために献げようとしているのではないだろうか。ソドムとゴモラのようではないだろうか。イザヤ書が語っているイスラエルやユダのようになってはいないだろうか、と考えさせられることでした。