「今日」と言われている間

静まりの時 ヘブル3・12~15
日付:2023年10月14日(土)

「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。(13)

 神さまは天と地にあるすべてのものを創造されました。「時間」というものも神さまによって創造されたものです(創世記1章14節)。神さまは秩序を大切にされる神さまなので、ご自身が創造された時間に従って世界を統べ治めておられますが、必要があれば、その時間さえも乗り越えることがお出来になります。
 今日という日は、昨日の次の日で、明日の前の日ですが、その秩序だった時間の流れも、神さまの御手の中にあります。「今日」という日は、神さまがお造りになった日なのです。昨日が特別な日であり、明日が特別な日であるように、今日という日も神さまがお造りになった特別な一日です。過去に一度も出現したことのない日であり、今後決してやってくることのない日です。そういう一日に私は生きている、生かされているのです。今日という日は、明日のための準備の日ではなく、昨日という本番の後始末の日でもありません。今日という日こそ、私の人生にとってもっともかけがえのない一日です。今日を生きないで、人生を生きたとは言えないのです。「今日」さえしっかりと生きるならば、人生に後悔はありません。それは刹那的に生きるということでは全くありません。私が生きているのは、今日、なのです。明日になれば、今「明日」と言っている日が、今日、となるのです。人生は、今日という日の連続、積み重ねなのです。
 今日をどのように生きるのか。いろいろな生き方ができると思います。しかし主にある者は、日々互いに励ましあって生きていきたいと思います。罪の力は嵐のように私の周りに、また私の内に吹き荒れるのです。励ましがなければ私は生きることが出来ないのです。もし罪に惑わされるようなことがあれば、頑なになってしまいます。人間は、罪に惑わされると、悪人になるのではありません。もともと悪人なのですから、罪に惑わされると、頑な、になるのです。いくら善人に見えても、頑な、であれば、それは罪から解放されていない、ということです。頑なになっているとすれば、それは罪に惑わされている証拠なのです。
 救われた、ということは、罪が赦された、解放されたということですが、それは頑なな生き方から自由にされた、ということです。放蕩息子が父の下から離れてしまったのは、「頑な」だったからです。自分の間違いに気づいてもすぐに引き返せなかったのは、「頑な」だったからです。しかし頑なさを振り捨てて、父のもとに帰ったとき、そこには愛と自由がありました。再び頑なになることがないようにしたいと思います。
 救われた者は、自由なのです。解放されているのです。今日という日にも、さまざまな嵐が吹くかもしれません。しかしイエスさまがともにいてくださいます。そうして御声を聞かせてくださいます(15)。その御声に心を開いて生きていればよいのです。