静まりの時 第二コリント2・14~17
日付:2023年10月09日(月)
14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。
15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。
16 滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。
17 私たちは、多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。
(第二コリント2・14~17)
「凱旋」というのは、戦いに勝って帰ってくることです。凱旋の行列とは、その勝利の行進ということでしょう。それに私を加えてくださる、そうして凱旋に加えられた私を通して、キリストを知る知識の香りを、至る所で放ってくださる、と。その香りとは、滅びる人びとにとっては、死に至らせる香りである、しかし救われる人びとにとってはいのちに至る香りである、といいます。このような務めにふさわしい者、すなわち凱旋の行列に加えていただける者とはいったいどのような者であるのか。それは神のことばに混ぜ物をして売らない人、誠実に、神さまから遣わされた者として、神さまの御前で、そしてキリストにあって語る者です。
さて、この説明で、私たちは凱旋の行列において、勝利した軍隊の一兵卒としてイエスさまと肩を並べて行進すると理解するならば、それは聖書を誤解していることになるようです。竹森先生のこの個所の講解説教の部分を見てみましょう。ちょっと長い引用で恐縮ですが。
「キリストの凱旋に伴い行き、という訳は、まことに穏やかではありますが、ここの激しさがよく出ていないような気がします。神は、キリストによって、ご自身、凱旋せられたのであります。それは、キリストの凱旋ではありますが、神の凱旋でもあったことを、見逃してはなりません。それと、キリストによってといったのは、これもキリストご自身が、凱旋将軍になって、勝利の大行進をなさることになぞらえたからであります。われわれ罪人が救われるのは、キリストが、われわれに勝って、われわれを率いて、ローマの都大路を練り歩く、凱旋行列をされることなのである、ということであります。われわれは、どこにいるのでしょう。われわれは、キリストと共に、肩をならべて歩く将兵の中にはいないのです。われわれは、その行列の一番後に、鎖に連(まま)がれて引かれて行く捕虜の中にいるのであります。われわれ救われた者が、キリストの奴隷であり(ローマ1・1)、キリストに捕らえられた者である(ローマ16・7、コロサイ4・10、ピレモン23)ということは、パウロがいつも語っていることであります。それなのに、われわれば、そういう意味で、キリストの捕らわれ人なら、キリストに打ち勝たれたものが、よく分かっていないのではないか、と思います。
キリストを信じるということは、キリストのまねをすることである、と思ったり、キリストの教えを守ることである、と考えて、キリストには、完全に敗けた、とは言えないのではないか、と思うのです。キリストと共に戦う同志、せいぜいキリストの兵士ぐらいとしか思わないのであります。しかし、この大行進においては、われわれは、キリストの勝利を証明する賞杯なのであります。人びとは、われわれを見て、キリストが勝ったということを見るのでなければなりません。われわれが見せることのできるものは、われわれの手足をしばっているキリストの恵みなのであります。キリストの恵みゆえに、身動きもできず、ただ、キリストの命ずるままに、キリストの勝利を証しする者になることが必要なのです。
コロサイ2・15には「そしてもろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである」と書いてあります。支配、権威というのは霊的な力のことです。われわれも、キリストのゆえに、さらし者になるのであります。これは、お上品ぶったキリスト教とは、大分ちがうのであります。
キリストが、われわれにお勝ちになったというのなら、われわれは、キリストに完全に敗れ、支配され、そのお望みになるままの信仰生活をしなければなりません。そうでなければ、われわれは、キリストとは無関係になってしまいます。」
(竹森満佐一、『講解説教・コリント人への第二の手紙』、新教出版社、1985年、112頁f)
勝利の兵隊として凱旋行列に加わっているとすれば、そこでふりまかれる香りは、せいぜいその兵隊の誉れであって、勝利の大将軍であるキリストの香りを放つことにならないのです。
昨日は、信仰の破船ということについて語られました。信仰の破船にあってしまうのは、自分が凱旋行列の最後尾に鎖でつながれている奴隷である、ということが分かっていないということが原因かもしれません。キリストの恵みの鎖で縛られているということが分かっていないので、相変わらず自分が勝利の兵卒みたいな顔をし、ときに殉教者気取りているので、信仰の破船にあうのでしょう。座礁し、嵐で転覆してしまう、整備不良の船体で航行不能となる、あるいは航海図を誤って読んでしまい間違った方向に進路をとってしまう、ということが起こるのです。