静まりの時 イザヤ60・14~16
日付:2023年10月07日(土)
あなたは捨てられ、憎まれて、
通り過ぎる人もなかったが、
わたしはあなたを永遠の誇り、
代々の喜びに変える。
(イザヤ60・15)
神さまが、私を誇りとしてくださり、喜びとしてくださること。その誇りは永遠であり、その喜びは代々の喜びであること。永遠とか代々という言葉は、時間的な意味とともに、何によっても変わることがない、変化しない、という意味もあるのだと思います。神さまが私を誇りとして喜びとしていてくださること。それは何があっても変わることがない、世界がどのように変化しても、また私自身がどんなに変わろうとも変わることがない。そのような神さまのお心によって私は守られ支えられているのです。
「・・・代々の喜びに変える」は、誇りや喜びとなるように私自信を変えて下さる、成長させてくださると読むことが出来ると思います。神さまは、私たちが喜ぶことの出来ないような存在であったけれども、それを喜びことの出来るように変えてくださり、喜ぶことの出来る状態となったので、そこではじめて誇りとし喜びとしてくださる、と。
それに対して共同訳では「・・・代々の喜びとする」と訳されていました。これも新改訳と同様に理解することもできると思いますが、「喜びとする」という神さまの決意、というか、意思を表しているようにも読めるのではないかと。そういう読み方が許されるとすれば、どんなに惨めな状況であったとしても、そのままの私を神さまは永遠に誇りとし喜びとしてくださる、そのように神さまはお心を持っていてくださる、と。
主は、私たちの行動や成す業を誇りとし喜びとしていてくださることもあると思います。しかしそれ以上に私たち自身を誇りとし喜びとしていてくださいます。何もできなくても、あるいは逆にこの世界から捨てられ、憎まれ、通り過ぎる人もないような状態であろうとも、主は、私を誇りとし喜びとしてくださるのです。
朝一番に教会堂の玄関を開きます。このところひんやりとした秋の風が入ってきます。静まりの時を終えて教会堂から出ようとすると、玄関で小鳥がばたばたとしていました。どうやら迷い込んで来て、そのまま出られなくなっているようです。扉は開いているのですが、ガラスにあたるばかりで出口にたどり着けないのです。透明なガラスですから、向こうに行けると思っているのでしょう。なぜ外に出られないのか不思議なのだと思います。次第に体力を消耗していくようで、見ている方も気が気でなりません。床に落ちたところをそっとつかもうとすると、もう力尽きたのか簡単につかませてくれました。外の植え込みにしずかに置くと、しばらく逡巡しているようでしたが、そのうちにぱっと羽を広げて飛び立っていきました。私の手の中には小鳥のぬくもりが残っていました。小鳥の歌を思い出しました。
小鳥の歌
弟子たちの心は神についての質問でいっぱいでした。
〈師〉は言いました。「神は〈知られていないお方〉、また〈知ることのできないお方〉だ。〈彼〉について述べられたすべての言葉、おまえたちの質問へのどんな答えも、〈真実〉をゆがめたものに過ぎないのだよ。」
弟子たちは途方に暮れました。「ではいったい、なぜあなたは〈彼〉について話しておいでなのですか?」
「なぜ小鳥は歌うのかね?」と〈師〉は言いました。
小鳥は述べたいことがあるから歌うのではありません。歌があるから歌うのです。
〈学者〉の言葉なら理解できます。〈師〉の言葉は、理解するものではありません。それらは、木立を吹く風、せせらぎの音、小鳥の歌に耳を傾ける人のように聴くものです。〈師〉の言葉は、すべての知識を超えた、心の内側にある何かを目覚めさせるものなのです。(アントニー・デ・メロ、『小鳥の歌』、女子パウロ会、1985年、14頁f)