こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった

静まりの時 ヨブ42・1~17
日付:2023年09月23日(土)

5 私はあなたのことを耳で聞いていました。
 しかし今、私の目があなたを見ました。
6 それで、私は自分を蔑み、悔いています。
 ちりと灰の中で。
・・・
17 こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。
(ヨブ42.5,6,17)

 ヨブは試練ののちに神さまとあたらめてお出会いしたといいます。そのときの出会いを、いままでは神さまのことを耳で聞いていた、しかし今、この目で神さまを見た、と表現しました。
 耳で聞いていた、ということと、目で見た、ということ。百聞は一見に如かず、という言葉があります。広辞苑によると「何度も聞くより、一度実際に自分の目で見るほうがまさる」とのこと。しかし神さまは嵐の中からヨブに語りかけられたのですから、神さまをその目で見たというわけではありません。ヨブが、今までは耳で聞いていただけだったが、今はこの目で見た、と言ったのは、今まで神さまを知っていると思っていたが実際は何にも分かっていなかった、しかし今は、神さまのことを新しく知ることが許された、と語っているのだと思います。机上の空論から、神さまを身体全体で知った、ということかもしれません。もちろん神さまをすべて知り尽くすことは不可能ですから、神さまの衣の裾の、ほんの一部に触れさせていただいた、ということでしょう。しかし人間にはそれで十分です。
 このように新しく神さまを知ることをヨブに得させたものは何か。それは、苦しみ、試練、でした。苦しみに出会うことによって、神さまを知るどころか、神さまなどいない、と言ってしまうことも多いと思います。しかしヨブは苦しみに出会って、はじめて神さまのことがよく分かった、と言ったのです。
 「それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で」。神さまのことがよく分かったヨブは、そこで悔い改めました。悔い改めたので、神さまのことがよく分かった、というのではありません。神さまのことがよく分かったので、悔い改めたのです。神さまのことがよく分かっていない時の悔い改めは、本当の悔い改めにはなり得ない、ということでしょう。人間は、神さまの愛に出会ってはじめて悔い改めることが可能となるのです。
 「主はヨブの後の半生を前の半生に増して祝福された」(12)。新しく悔い改めに生きたヨブの後半生は、その前の半生よりも多くの祝福に満ちていました。「こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった」。私たちもこのような生涯を送りたいと思います。
 苦しみに出会って、そこで神さまにお出会いするか、それとも神さまなどいないとするのか。試練は、祝福の生涯を送るかどうかの分岐点です。

 試練、という言葉をあらためて考えておきたいと思います。

「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。」(創世記22・1)

 聖書のなかで最初に「試練」という言葉が出て来るのはおそらくここではないかと思います。アブラハムが神さまから与えられた試練とはいったい何だったのでしょうか。何か苦しみに出会ったのでしょうか。
 アブラハムが神さまから与えられたことは、息子イサクを捧げよ、ということでした。イサクは約束の子であり、神さまがアブラハムを大いに祝福すると言われた根拠です。それを捧げよというのですから、まったく理屈に合わない神さまからの申し出です。その神さまの「ことば」に従うかどうか。それがアブラハムに与えられた試練だったのです。
 私たちは、人生の苦しみ、を試練と言ったりしますが、聖書の語る試練とは、御言葉に従うかどうか、ということなのです。どんなに理屈に合わないことであろうとも、自分にとって理不尽なこと、不都合なことであろうとも、ただ神さまがそういわれるならば、と神さまの言葉に従うかどうか。それが聖書が、試練、と語るときの意味なのです。この試練を経る時、その先に大いなる祝福がある、と聖書は語ります。
 何かの苦しみに出会う時、その苦しみは自動的に試練と言うことはできません。その苦しみを神さまからのものとして受け止めること、そして善であり愛である神さまからのものなのだから、神さまの前にへりくだって、神さまの御心に従っていこう、とすること。そうして、苦しみは、試練、とその装いを新たにするのです。
 受胎告知のマリアさんは試練にあったのです。ヨセフもそうでした。洗礼ののち悪魔の誘惑を受けられたイエスさまは試練に合われたのです。そして十字架は何よりも試練だったのです。使徒たちは数々の試練を経験しました。いずれも、単に苦しみに出会ったということを語っているのではありません。その状況の中で、神さまのお言葉を第一にするかどうか。それが試練ということです。