静まりの時 第一テサロニケ5・23,24
日付:2023年08月24日(木)
23 平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。
24 あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。
(第一テサロニケ5・23,24)
手紙の最後に祈りの言葉が語られます。「あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように」。聖となる、聖められる、聖化される。特別の人のことを言うのではありません。キリスト者はすべてこの祈りの目標をいただいています。
救われるということは、罪びとである私を、罪びとであるにもかかわらず、神さまが義人と認めてくださること、それを私が受け入れること、信じることです。しかし聖書はそれはまた聖化の道に歩み出すことであり、聖化において救いは文字通り救いとなる、と語ります。岩下壮一は、「義認」と訳される〔Justificatio〕を、その著『信仰の遺産』(岩波文庫、2015)で「成義」と訳しました。義が成る、義に成る。ただ義と(形式的に)認められる、というのにとどまらず、文字通り義とされるのだ、というのでしょう。
聖なるものとなる、ということは、「霊、たましい、からだのすべてが」「責められるところのないもの」となることです。それが「私たちの主イエス・キリストの来臨のときに」「保たれてい」ることです。保たれているという訳は、今既に聖とされているのだが、それが失われることがないように、という意味にも取れます。共同訳2018では「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守り、私たちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者としてくださいますように。」(第一テサロニケ5・23)と訳されていますので、今はまだ完成されていないが、主が再び来てくださるときには完成されていますように、との祈りの言葉として理解するのがしっくりきます。
「霊、たましい、からだ」。この三つが聖くされる、ということ。人間は霊だけでもたましいだけでも、からだだけでも存在しているのではありません。これらは分けることはできません。すべてにおいて聖くされる、ということ。たましいと訳されているのは、共同訳2018では「心」。心さえ聖ければ、からだはどうでもよい、ということではありません。
このように霊、心、からだのすべてが聖くされていく。そうしてくださるのは「平和の神」です。神さまご自身が救われた者を聖くしてくださるのです。
神さまのことをことさら「平和の神」と呼びました。平和、平和をもたらしてくださる神。平和に満ちておられる神。その神が私たちを聖くしてくださるのです。
神さまの平和は、どのように明らかにされたのか。
「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。」(ローマ5・10,11)
かつては神さまに対して敵対していた私たち罪びとに、神さまの方から和解の手を差し伸べてくださいました。神さまは御子イエスさまの十字架の死と復活において、平和を実現してくださったのです。この平和の神が、私たちを聖めてくださいます。霊、心、からだが聖められる、ということは、霊、心、からだにおいても平和をもたらしてくださる、ということではないでしょうか。
「神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(第二コリント5・18)
霊、心、からだにおいても平和をもたらしてくださる、ということは、私たちが自分の霊、心、からだと和解する、ということでもあります。
神さまが義と認めてくださったので、私たちは自分を義と認めるのです。自分の中に吾人と見える材料があるので、自分を義人と認めるのではありません。自分の中には義人と認めることのできる材料は何一つないのです。にも関わらず神さまが義と認めてくださったので、私もそれを受け入れる、のです。それが救いです。
心においても、からだにおいても、自分が自分と敵対している。人生においても自分が自分と敵対している。自分の心を見つめて、こんな私は嫌だ、受け入れられない。自分のからだを見て、これは本来の私ではない、私はもっと素敵なんだ。自分の人生を見て、こんな人生は受け入れられない、といったことから、解放される、和解するのです。「私」という存在のすべてを、まず私が和解する、受け入れていく、愛していくのです。世界には70億以上の人類がいると言われます。その中の一人である「私」をまず私が愛さないでだれが愛してくれるのか。私さえも愛そうとしない「私」とだれが和解できるのか。まず私が「私」と和解する。そうして聖化の歩みが前進します。生涯これに費やしても後悔はありません。人生は自分を受け入れる旅なのです。そうして天国に行ったときに神さまから、あなたは良い実を結んだか、と問われる。それは「わたし(神)の大切な作品であるあなた(自分自身)を、あなたに預けたが、あなたは、そのあなたをどれだけ愛したか、大切にしたか」と問われるのです。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5・22,23)の実を自分の人生に結んだか、と問われるのです。
神さまは必ずそうしてくださいます。私の真実さにかけてそのようになるのではありません。「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます」。
処暑も過ぎました。暑さのおさまる時期とのこと。昨日の雨で少し夏の終わりを感じるようになったでしょうか。つくつくぼうしも鳴きはじめています。田圃では稲刈りも始まっています。この夏の猛暑がからだに堪えました。