静まりの時 第一列王記8・41~43
日付:2023年07月19日(水)
同様に、あなたの民イスラエルの者でない異国人についても、その人があなたの御名のゆえに、遠方の地から来て、彼らが、あなたの大いなる御名と力強い御手と伸ばされた御腕について聞き、やって来てこの宮に向かって祈るなら、あなたご自身が、あなたの御座が据えられた場所である天でこれを聞き、その異国人があなたに向かって願うことをすべて、かなえてください。そうすれば、地上のあらゆる民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じようにあなたを恐れるようになり、私が建てたこの宮で御名が呼び求められなければならないことを知るでしょう。
(第一列王記8・41~43)
ソロモンの神殿は、イスラエルの祈りの場所というだけでなく、「あなたの民イスラエルの者でない異国人」、すなわち異邦人の祈りの場所でもある、とソロモンは祈りました。
イスラエルで、異邦人、異国人への事実上の差別的なことが顕著になったのは、捕囚期以降のことでしょう。イエスさまの時代には、さらにその差別は厳しいものとなったようです。捕囚期のユダヤ人以外の民との結婚や、解放後の純粋を求める心。マカベヤ記に記されている戦争など。さまざまな要因が異邦人への差別意識を強化したのでしょうか。
しかし聖書をよく読むと、イスラエルの始祖であるアブラハムは、異邦の出身ですし、今朝の個所など、わりあい異邦人とともに生きようとしているイスラエルの姿が明らかにされています。むしろイスラエルには、選ばれた民として全世界を祝福する役割が与えられているように思います。
信仰の純粋性を保とうとして異邦人を区別し、異教的なことを排除するのか、それとも異邦人の祝福を祈り、積極的に交流の道を求めていくのか。この違いは大きいと思います。イエスさまご自身の異邦人とのかかわりや、使徒の働きに記されている異邦人宣教への道を見ると、キリスト教会は民族の枠を超えてすべての人への福音宣教に召されているのだと思います。
教会に、いわゆるキリスト教信仰を持たない人がやって来て、なにがしかの祝福を願おうとするとき、私たちは、その祈りをかなえてあげてください、と祈るのがよいのだと思われます。
ヨハネがイエスに言った。
「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」
しかし、イエスは言われた。
「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。」
(マルコ9・738~40)