聞いて、お赦しください

静まりの時 第一列王記8・27~32
日付:2023年07月18日(火)

 それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。
 あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、今日、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。そして、この宮、すなわち『わたしの名をそこに置く』とあなたが言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この場所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたの御住まいの場所、天においてこれを聞いてください。聞いて、お赦しください。
 ある人が隣人に罪を犯して、のろいの誓いを立てるよう求められ、この宮の中にある、あなたの祭壇の前に来て誓うなら、あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行って、悪い者にはその生き方への報いとしてその頭上に悪を下し、正しい者にはその正しさにしたがって義をもって報いてください。
(第一列王記8・27~32)

 神殿が建った時にソロモン王は祈りました。その祈りの言葉が今朝の個所です。

 宗教施設が建つと、多くの宗教ではご神体とかお性根とかといったものを入れるという儀式が行われることでしょう。そして宗教施設にまさに神がいるということを明らかにすることでしょう。しかしソロモンはそうはしませんでした。確かに契約の箱を入れるということはしましたので、それが当てはまるかもしれませんが、しかし最初の祈りにおいて、ソロモンが祈ったのは、建てられた神殿には神さまは住まれることはない、という祈りでした。「まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです」。ソロモンは謙遜しているのではありません。真実を祈っているのです。神さまと人間である自分との立場の違いを鮮明にするのです。神さまを神さまとする、ということです。
 そのうえでソロモンは祈りました。「あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください」。この祈りは、さらに「祈りを聞いてください」と続き、「聞いてください」が実に4回繰り返され、そして「聞いて、お赦しください」で一区切りとなります。
 ソロモンは、神殿を、神さまがお住まいになるところというのではなく、自分たちの祈る場所として定めている、ということでしょう。つまり神さまのために神殿を建てたのではなく、自分たちが神さまの前にまっすぐに歩むために神殿を建てた、と祈っているようです。そしてその祈りの締めくくりが「赦してください」となる。ソロモンはいったい何を赦してほしいと祈っているのでしょう。何か罪を犯したということでしょうか。
 赦す、という言葉は、罪の赦しのことであって「許し」すなわち許容することではない、ということです。しかし、では「許し」の意味は全くないのか、というと実はそうではありません。神さまが私たちを赦してくださった、ということは、主イエスさまの十字架によって明らかになりました。神さまの命が献げらえることによって、ゆるし、が実現したのです。しかしその神さまは復活して私たちとともにいてくださいます。神さまがともにいてくださる私たちは、もう罪を犯さなくなったのか、というとそうではありません。人間である限り罪を犯し続けます。その罪を犯す人間を、たちどころに滅ぼすこともできる神さまが、滅ぼさないでむしろともにいる、といわれた、ということは、そこにおいて神さまが「許し」ていてくださるという事実が起こっているのです。これは決して罪を承認しているのではありません。罪は裁かれなければなりません。しかしそれでも神さまがともにいるという事実は、そこに神さまが、その状態を受け止めておられる、ということが起こっている。つまり十字架の苦しみをもって、ともにいる、ということが実現されている。これが愛するということです。ですから私たちは、ほんとうに自分の姿を知っているならば、具体的な罪を犯したからだけではなく、常に「赦してください」と祈るのだと思います。
 ソロモンの「聞いて、赦してください」という祈りは、罪ある人間であることを赦してください、神殿を祈りの場所とすることを赦してください、そうして神さまが私たちに目を留めてくださることを願う私を赦してください、そしてこれからも罪を犯してします私たちを赦してください、許してください、とも聞こえてきます。

 新共同訳ではこの聖句は「どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」と訳されています。明確に罪の赦しを祈っています。それは神殿を、罪の赦しの場所としてソロモンは位置付けたということでしょう。
 そして続く聖句は「ある人が隣人に罪を犯して・・・」と具体的な人間関係の罪の問題に移っていきました。神殿が、罪を犯した者を正しくさばく場所である、とソロモンは祈っています。

 正しくさばく場所。今日でいうと裁判所のようなところでしょうか。神殿にそのような機能を持たせたということでしょうか。

 神殿を今日の教会と置き換えるとすれば、同じところと違うところがあると思いますが、この「正しくさばくところ」ということは共通していることでしょう。もちろん誰かをさばくところではありません。誰かの罪を暴くところでもありません。
 しかし自らの罪は、神さまの前に明らかにされるところです。それを可能とするのは神さまですが、それを受け入れるのは自分以外にはだれもできません。そして自らの罪はそのように神さまの前に明らかにされるということがなければ、赦される、ということもありません。自らの罪が明らかにされる、ということは、正しくさばくためです。教会が正しくさばく、ということは、赦すということです。赦しなく、さばく、ということは、この世においてのさばきはそうかもしれませんが、教会がすることではありません。ですから教会は、赦しが語られる場所なのです。赦しを語ることがない教会は、もはや教会ではありません。
 繰り返すようですが、この赦しには、許しが含まれています。しかし許容は含まれていません。この辺がかなり難しいのですが、先日の日曜日に宮きよめのところで学びましたが、イエスさまの時代に、神殿には、異邦人はもとより、目の不自由な者、足の不自由な者も入れませんでした。それはダビデの出来事に由来していると言われますが、神殿は、裁くところではあったかもしれませんが、赦すところにはなっていなかったようです。そのような神殿の在り方をイエスさまは、打ち壊してくださいました。私たちはこのイエスさまを信じています。

 毎年、年賀状とともに暑中見舞いをくれる教え子がいます。教え子といっても学生の時の家庭教師の生徒ですが。今回もいただいた暑中見舞いに、白内障の手術を受けた、と書かれていました。へ~、そんな年か、と思ったことでした。私はというと、極度の近視で老眼の進み、飛蚊症もあり、という状況ですが、白内障はもう少し先のことのようです。