たたえられつつ恐れられ

静まりの時 出エジプト15・6~11
日付:2023年06月12日(月)

主よ、神々のうちに、
だれかあなたのような方がいるでしょうか。
だれがあなたのように、聖であって輝き、
たたえられつつ恐れられ、
奇しいわざを行う方がいるでしょうか。
(出エジプト15・11)

 聖書に記されている神さまは、聖であって輝いているお方、またたたえられつつ恐れられるお方、そして奇しきわざを行うお方である、といいます。この神さまが、敵から私たちを救う、とモーセは歌いました。モーセにとって、またイスラエルにとって、出エジプトの出来事は、このような神さまを体験するときでした。

 敵とは何か。9節に

「敵は言った。『追いかけ、追いつき、略奪したものを分けよう。わが欲望を彼らによって満たそう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』

 敵とは「わが欲望を彼らによって満たそう」とする存在。私たちを奴隷のように扱い搾取するものである、といいます。私が私として生きることをできなくさせてしまうもの。罪とはまさに私を私として生きることをさせなくしてしまうものなのです。
 神さまはそのような滅びの生き方から私たちを救いたいとあつく願って下さいました。そしてそのために御子イエスさまをこの地に遣わしてくださいました。イエスさまに出会うということは、この聖であり輝いているお方、たたえられつつ畏れられるお方、そして奇しき御業を行ってくださるお方にお出会いすることです。この神さまにお出会いすることによって、私が本来の私を取り戻し私らしく生きる者へと導かれるのです。それが救いです。礼拝において、私たちはそのような神さまにお出会いします。

 昨日の教会学校では、ノアの箱舟、の個所を学びました。罪を犯した人類を滅ぼす神さまの姿を学ぶことになりました。ノアの箱舟のイラストをネットでみると、たくさんの動物たちが仲良く乗り込んでいる箱舟の絵が出てきます。そのイメージはほんわかとしたものですが、洪水によるさばきは、想像を膨らませれば膨らませるほど恐ろしいものです。数年前に、ラッセル・クロウ主演の『ノア 約束の舟』という映画がありましたが、本当に恐ろしい映画でした。何が恐ろしいかというと、神さまというお方はこのような恐ろしいお方である、という印象を観る者に与えてしまうことになるのではないか、という恐ろしさでした。
 しかし神さまはそのように恐ろしいだけのお方なのかというと聖書は、そうではない、と語っているのだと思います。神さまは、聖であって輝いているお方、たたえられつつ畏れられるお方、そして奇しきみわざを行われるお方なのです。
 そんなことで、子どもたちとはあらためて、

「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」(創世記6・5,6)

の御言葉を学びました。
 神さまは本来後悔されるようなお方ではありません。後悔というのは、過去に行った行為に対する悔いでしょう。自分の行ったことが失敗だった、と振り返っているということでしょう。神さまのなさることに失敗はありませんから、後悔ということは神さまにおいては起こり得ないことであるはずです。その神さまが、悔やみ心を痛めておられるということは、異常事態なのです。私たちが罪を犯すということは、神さまにとっては異常事態で、それゆえ心を深く痛められていることなのです。
 私たちは、愛する者が心を痛めている姿に無関心ではいられないように神さまによって造っていただきました。ですから、神さまが心を痛めておられることに、私たちの心が無関心ではいられない、罪から離れて善に生きよう、と願うためには、まず神さまへの愛を育てていくことが大切でしょう。恐怖心ではなく、神さまへの愛が、罪から離れて善に生きる心を私たちのうちに形作るのです。
 ノアの箱舟は、暴君のように暴力を行使している神ではなく、罪と滅びの中に突き進む私たちを何とか救いたいと苦悩しておられる神さまのお姿です。まさに十字架のイエスさまのお姿なのです。というようなことを教会学校のお話しで学びました。

 昨日の午後は花の日訪問で、教会学校の子どもたちやスタッフと出かけました。小雨の中でしたが、消防署、休日診療所、警察署にお花とカードを届けることができました。訪問の後、教会の方が家庭菜園というにはかなりの規模のブルーベリー畑にいって、ブルーベリーの実を摘ませていただきました。摘みながら食べながら、カップ一杯(いっぱい)以上のお土産もいただき、みな大満足で帰路に着きました。教会に帰って来た時には、空も明るくなっていました。きょうも感謝な主の日でした。