静まりの時 イザヤ40・12~14
日付:2023年06月05日(月)
12 だれが手のひらで水を量り、
手の幅で天を測り、
地のちりを升に盛り、
山々を天秤で量ったのか。
もろもろの丘を秤で。13 だれが主の霊を推し量り、
主の助言者として主に教えたのか。14 主はだれと相談して悟りを得られたのか。
だれが公正の道筋を主に教えて、
知識を授け、英知の道を知らせたのか。(イザヤ40・12~14)
水を量り、天を測り、地のちり、山々、丘を創造されたお方は、主です。主の霊を推し量り、主の助言者として主に教えた者は誰もいません。主が相談して悟りを得られた者はいませんし、公正の道筋や知識を授け、英知の道を主に知らせた者も誰もいません。ただ主だけが公正、知識、英知の源です。
「あなたがたは神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。」(18)
十戒の中に「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。」(出エジプト20・4)という戒めがあります。「自分のために」つまり自分好みに、自分のいいようにあしらうことのできる「もの」を造ってはならない、それが「偶像」である、と語っています。
イザヤがここで「神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか」と問いかけていますが、神を自分好みの神とする、神を自分のための使用人のような似姿に似せようとする、それが偶像である、ということでしょう。
イスラエルの人びとは、神さまのことを知らなかったわけではありません。しかし偶像礼拝が起こってしまいました。それは、神に向かう時に、つねに自分好みの神であるのか、自分たちの願いをことごとく、そして一方的に聞いてくれる神であるのかを、はかりにかけつつ、ひたすら自分たちの使用人となってくれる神を求めてしまっていた、ということでしょう。これはイスラエルの問題だけではなく、人間みんなの問題なのだと思います。
自分好みの神。自分の使用人となってくれる神。それは突き詰めて考えると、結局自分自身を神としているということでしょう。
聖書が語る幸せの生き方は、そのような偶像礼拝から解放されて、神を神とすること。そしてそれは自分を神としないということでもあります。
神を神とするとき次の言葉が私たちに実現します。
28 あなたは知らないのか。
聞いたことがないのか。
主は永遠の神、
地の果てまで創造した方。
疲れることなく、弱ることなく、
その英知は測り知れない。29 疲れた者には力を与え、
精力のない者には勢いを与えられる。30 若者も疲れて力尽き、
若い男たちも、つまずき倒れる。31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように、翼を広げて上ることができる。
走っても力衰えず、歩いても疲れない。(イザヤ40・28~31)
神を神としないならば、自分の力のみに頼って生きることになります。自分の力には限界があります。力衰え、疲れてしまうのは、神を神としていないからなのです。
昨日は、主の日、礼拝の日でした。コロナ禍での過ごし方が大きく変わり、昨日から聖餐式を再開しました。パンとぶどう汁の受け皿を五つにして、五人の役員さんに各列を担当していただいて分餐を行いました。大変感謝なときでした。
午後は会議が行われ、熱心な話し合いの時が持たれました。いつもそうですが皆さんが教会を愛してそれぞれに自由闊達に意見を交わすことができ感謝な時でした。子育てもそうですが、愛があって初めて子育て(子育ち)が成り立ちます。教会も、教会への愛があってこそ、教会の成長が生まれるのだと思います。この小さな話し合いの時が、教会につながる一人ひとりの祝福と実を結ぶようにと祈りつつ、祝福された時を過ごしました。
教会学校では、カインとアベルのところを学びました。『成長』というテキストを用いて学んでいます。神さまが、弟アベルの献げ物には目を留め、兄カインの献げ物には目を留められなかったこと。
まず彼らが献げ物をした、ということ自体に心が留まります。主にあるカップルであるダムとエバのもと育った二人の子どもは、だれに強制されることもなく、献げる、ということをしたのです。私たちの子どもはどうだろうか、としばし考えさせられることでした。
さて成長のテキストでは、多くの解釈のように、アベルの献げ物は、献げ物自体というよりもその捧げ方に、神さまが目を留められる素晴らしさがあったのだ、と書かれていました。ワークブックもそのような解釈で作られていたのだと思います。
しかし私はどうもそのように解釈することに平安がありませんでした。それでは結局行為義認になってしまうのではないかと思ったからです。
それで、なぜアベルの献げ物には目を留められ、カインの献げ物には目を留められなかったのかの理由、つまり不公平の理由は分からない、と子どもたちにお話しすることにしました。ただ理由は分からないけれども、公平でない、違いがある、ということは、私たちの生き方に選択を与える、というようなことをお話ししました。
かけっこの速い者、遅い者、悟りの速い者、そうでない者がいます。歌の上手な人、絵を描くのが好きな人、その逆の人、みなそれぞれ違いがあるのです。神さまはが不公平な方である、とは思いたくないのですが、それは一つの現実だと思います。そのような違いの現実は、私たちに、妬むのか、それとも、その違いを受け止め、互いの存在を喜ぶのか、の選択を与えます。
基本は、みんなちがって、みんないい、です。ですから自分にはできないと思って妬むのではなく、できる人を喜ぼう。またできる人は、できない人に対して優越感を持つのではなく、助けよう、と。神さまはそのような共に生きる道を与えるために、互いに違いを与えておられる。そんなことを話そうと思いました。うまく伝わったか分かりませんが、子どもたちには、できるからと言って高慢になるのではなく、また、できないからと言って自己卑下するのでもない。できてもできなくても胸を張って生きる、弱さや足りなさを、そのままに互いに受け入れあう、そんな人に育ってほしいと思いました。