何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです

静まりの時 マタイ10・16~20
日付:2023年06月03日(土)

人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。
(マタイ10・19~20)

 イエスさまは、弟子たちを遣わされました。その時のはなむけの言葉がここに書かれています。狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わすと主は言われました。
 しかし羊のようにおとなしくなされるがままに、無抵抗に生きよ、といわれたのではなく、蛇のように賢く、鳩のように素直であれ、と言われました。賢さ、と、素直さ。それがはなむけの言葉でした。
 遣わされる彼らですが、それはまた「引き渡され」たり「連れて行かれ」たりする歩みでもあると言われます。しかしそこで主を証しすることになるのです。
 そこでは何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。聖霊が話させてくださる、と主は言われました。

 遣わされる者のうちにあって話される「あなたがたの父の御霊」。主にある者のうちには、聖霊がおられます。その聖霊が話される、というのです。これは一見、遣わされる者が恍惚状態になって、その人格が失われ、何者かになって話すということのように読めてしまいますが、そういうことではないでしょう。
 新約聖書は、使徒たちがことごとく御霊が話させてくださるように話した結果生まれたものだと思います。引き渡されたり連れて行かれたりした中で書き送られたものも多くあります。迫害の中でひそかに記されたものもあります。いずれも信仰の戦いのなかで書かれたものです。
 その言葉は、相手を思いやりつつ、今ある問題に真摯に立ち向かい、真理を語ろうとした愛に満ちています。神さまへの愛、そして隣人への愛に満ちているのです。
 うちにある御霊が話される、ということは、そういうことです。

 明日は主の日。きょうは備えの日です。
 先週は同労の先生が説教を取り次いでくださいましたので、二週間ぶりの説教奉仕となります。説教は、前に立つ牧師が会衆に向かって語ることなので、いわゆるパブリックスピーキングではありますので、集った人たちの思考と感情に理解を生み出し、説得するという論理的思考が必要です。その点は、一般的なプレゼンや講演会のスキルに学ぶところがあります。神学校での説教学では、内容もさることながら、声のトーンや、話の抽象レベルの抑揚なども必要なのだと思います。
 一般的なプレゼンや講演会と違うところは、それが「対話」である、というところでしょうか。説教者は、会衆という「マス」(大衆)に語っているのではありません。会衆という人に向かって語ります。ひとりにむかって話しているということを忘れてはいけません。
 また神さまがその一人ひとりを導いておられることを信じて委ねながら、与えられた聖書の言葉をお伝えしていきます。決して人びとの心をコントロールし目的の思考に導いていくということではありません。
 ですから説教者は、会衆に先立って自分自身が、聖書の御言葉に、そしてそこに明らかにされている真理に素直でなければなりません。それは御言葉を伝える会衆に先立って、まず自分自身が聴衆となる、ということです。自分自身が御言葉によって励まされたり、取り扱われたり、悔い改めさせられたり、ということが必要なのです。そしてそれは説教準備の醍醐味でもあります。蜜のように甘い時なのです。
 最悪なのは、聖書の知識をひけらかそうとしたり、聖書の教えをもって誰かを指導してやろう、誰かを教えてやろう、という根性をもって講壇に立ってしまうことです(笑)。ですから自分が語ろうとするのではなく、「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です」ということを謙遜に心していなければなりません。
 神学校で指導してくださった先生が、説教はあまりにも整いすぎていないでよい、と教えてくださったことがありました。たとえば学校では、指導要領の具現化(笑)、がその目的ですから、教授されるべきことは、整っていなければなりませんし、教材研究においては不明な点を払拭しておくことが必要でしょう。
 しかし説教は、説教者自身が一人の信徒として神さまのまえに、まず御言葉を聞くのですから、人間の矛盾を抱えたままに神さまの御言葉を聞きます。またそれが神さまのお言葉であれば、一人の人間の理解力に限界があるのは当然のことですから、分からない、ということも了解されることなのです。その論理的スピーチからすれば、落第点をつけられるような状況の中にも、しかし神さまの愛が宣べ伝えられ、そのために説教者も含め人間の罪が悔い改められ、信仰が前進する、ということが起これば、それが説教なのです。

 恩師がよく言われたことに、説教を取り次いだ後に自分が話したポイントとは全く違う点が会衆に響くということが度々おこる、その都度、今日もイエスさまにやられた、と思う、イエスさまは小さな説教者を越えていつも豊かにお働きなり、ご自分が神であることを教えてくださる、説教者はいつも謙遜にならされる、と。

 昨日は嵐のような一日でした。今日は穏やかな一日が始まりました。