私自身もこの方を知りませんでした

静まりの時 ヨハネ1・29~34
日付:2023年06月02日(金)

私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』
(ヨハネ1・33)

 バプテスマのヨハネはイエスさまを指し示し「私自身もこの方を知りませんでした」と語りました。バプテスマのヨハネとイエスさま。バプテスマのヨハネはザカリヤとエリサベツの子どもで、イエスさまとは親戚です(ルカ1・36)。バプテスマのヨハネの両親は、イエスさまの母マリアとヨハネたちの出産前に出会っていますし、親戚なのですから彼らには幼いころから出会う機会はたくさんあったことでしょう。ですからバプテスマのヨハネがイエスさまのことを「私自身もこの方を知りませんでした」と語っているのは、不思議なことです。
 この「私自身もこの方を知りませんでした」とは、イエスさまのことを人間的には知っていたかもしれませんが、このお方が「世の罪を取り除く神の子羊」であるとは知らなかった、まことの神であり、救い主であるとは分からなかったということでしょう。

 「知る」ということは奥深いことです。長年連れ添った伴侶の意外な面を見て、新しく知るということもあるでしょう。自分の子どもでありながら、こんな面があったのかと、感心することもあるでしょう。おおよそ人格を持った存在に対して「知る」ということは奥深いことなのです。知り尽くすということはできないことかもしれません。

 バプテスマのヨハネのイエスさまに対する新しい認識が生まれたのは、ユダヤ人たち、祭司、レビ人たちからの問いがきっかけでした。彼らがバプテスマのヨハネに向かって「あなたはどなたですか」(19~)と問いかけたことが始まりでした。
 この問いに対してバプテスマのヨハネは、自分はキリストではない、神ではない、と明確に答えました。自分は、道を整える者、である、と答えました。自分が誰であるのかを明確に語っているのです。

 自分が誰であるのかが明確にされること。そして、イエスさまはどなたであるのかを明確にする、ということ。この二つはつながっています。

 逆に言うとイエスさまが自分にとってどなたであるのか。自分とイエスさまとの関係はなんであるのか、が明確にされる、ということで、人間は初めて自分を知るのです。
 それはイエスさまというゆがみのない完全な鏡の前に立つことのようです。イエスさまにお出会いするまでは、やみくもに生きていました。鏡の無い状態です。まったく自分の姿が見えていません。あるいは、この世にはゆがんだ鏡が数多くあります。真実の神さまに出会わずゆがんだ鏡の前に立って自分を発見しようとしていました。自分を自分好みに映してくれる鏡を追い求めていました。真実の自分を映し出す鏡を避けていたのかもしれません。
 いまゆがみのない完全な鏡であるイエスさまにお出会いし自分の真実の姿を見る者へと導いていただきました。

 自分の真実の姿を見るのには勇気がいります。イエスさまは真実の鏡であるとともに、愛なるお方です。私のために十字架にかかり自らの命を捧げてくださるほどに私を愛していてくださるまことの神さまです。このイエスさまだからこそ、私たちは安心して真実の自分を見ることができるのです。

 ヨハネは語りました。

「その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」(27)

 謙遜の言葉のようですが、自己卑下の言葉ではありません。自分の役割を知り、そこに使命を感じ、人生を献げることのできる喜びの言葉です。自分にはその値打ちがない、ということを知っているところに、このヨハネの限りない値打ちを発見します。

 今度の日曜日から聖餐式を再開します。自らを吟味する時があります。それは罪を犯してはいないだろうか、自分は大丈夫だろうかと吟味するというよりも、自分はふさわしくないということを告白するための吟味です。以前にも紹介しましたが、芳賀力先生の文章を引用します。

1,主の体をわきまえる信仰なくして聖餐にあずかることは、特別の食事をただの食事に変え、欲せずしてキリストの十字架を空しくすることになる。
2,聖餐の恵みは、主の体をわきまえる者に、それに対応した悔い改めと感謝を呼び起こす。恵みにふさわしくないことを自覚し悔い改めを祈り求める罪人こそが、恵みにふさわしい陪餐者である。そして真実に悔い改めを願う者は、まず神によって生まれ変わること(洗礼)を求める。
3,真実に悔い改め、感謝をもって赦しを受け取ることこそが、悲しみの食事を深い喜びの食事に変え、主の体の枝となって新たに生きる望みと力を与える。

(芳賀力、『洗礼から聖餐へ キリストの命の中へ』、「ふさわしい陪餐とは」、キリスト新聞社、2006年、86頁f)

 きょうは本部作業の予定でしたが、雨もあり中止となりました。いつもご苦労さまです。

 撮りためたビデオのなかから室内自転車のお伴で、ジュディ・デンチ主演の『あなたを抱きしめる日まで』を観ました。苦しみの過去を引きずりながら、今を新しく生きようとする人びとの姿に感動します。