静まりの時 ルカ24・44~49
日付:2023年06月01日(木)
見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。
(ルカ24・49)
「それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。『次のように書いてあります。・・・」(45,46~)。
聖書を悟る、ということが私の中に起こるとすれば、それはイエスさまご自身の働きである、と聖書は語ります。私が聖書を悟るために、イエスさまは私の心を開いてくださるのです。いわば聖書を悟るということは、神さまの御業、奇跡なのです。
これはすべての人に当てはまります。はじめて聖書を読んで何らかのことが私に悟りを与えたとすれば、そこにイエスさまが働いていてくださるのです。
さて、復活されたイエスさまは、40日の間、弟子たちにお出会い下さいました。そして昇天、天に昇って行かれました。その10日後、五旬節の日に、聖霊が降臨されました。この聖霊は、神ご自身です。三位一体の第三位格です。神さまは、ご自身を私たちに現すにあたり、三位一体としてあらわしてくださいました。私たちが信じる神さまは、唯一まことの神であるとともに、三つにして一つの神なのです。神さまの唯一性は、数ある神々の中のナンバーワンという意味の「一つ」ではなく、オンリーワンという意味での「一つ」です。
この第三位格である聖霊は、「わたしの父が約束されたもの」と紹介されています。すなわちイエスさまの父なる神さまが約束されたもの、必ず降すと約束されたものです。
「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(ヨハネ14・16)
神さまがともにいてくださる、という信仰的な真実は、この聖霊によって実現しているということです。
洗礼を受けた者にはもれなくこの聖霊がご臨在くださっています。また信仰を持つということ自体、イエスさまが心を開いて下さらなければ起こり得なかったことですから、信仰を告白する以前からすでに聖霊さまの働きが始まっています。先行の恵み。神さまのお働きは人間のあらゆることに先行しているのです。また聖霊がともにいる、という事実は、人間の業によらず神さまのお約束です。神さまの約束は、一方的な愛の契約であって、人間の事情によって変化、変質することがありません。人間が神さまに対して不真実であってもよい、ということではありませんが、神さまは人間の不真実に左右されるようなお方ではありません。神さまは人間の不真実を超えて下さいます。だからこそなおさらこの愛に私たちは応えたいと願います。
天地創造の初めからイエスさまがおられたと同じように、この聖霊なる神さまも天地創造の初めからご存在されています。創造の御業は、三位一体の神さまの御業です。
ですから、すでにおられるお方なのですが、ここでイエスさまは、その聖霊を送ります、と言われました。そしてその聖霊によって力を着せられる時がやってくる、と言われました。永遠の神が、私とともにいてくださることが、歴史に刻まれる、その時がやってくると言われたのです。
「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
弟子たちが唯一なすべきことは、都にとどまること、でした。
この「とどまる」(ギリシャ語「カチゾー」)という言葉を辞書で調べると、最初に出てくる意味は「座る」です。もちろんここではとどまると訳されるべき言葉ですが、無理矢理にいうと、イエスさまは「都に座っていなさい」「ばたばたと立ち働かないで、とにかく座っていなさい」と言われたような感じです。
私たちは、じっと座っている、ということが得意でしょうか、それとも苦手でしょうか。
ただ座っているということ。テレビを観るのでもない。読書をするのでもない。あれこれと考えるのでもない。心を空っぽにして、ひたすら座る、ということ。
弟子たちは聖霊降臨を待ち望むことになったのですが、イエスさまの昇天ののち10日後にそれがおこることを知りませんでした。いつとも知れないことを待ち望むこと。それをただ座るということによってなすこと。それがイエスさまが天に昇られた後、地に残された弟子たちの信仰生活の始まりだったのです。
時折参加する牧師たちの黙想の会では、まず座ります。床に座る場合は、お尻の下に小さな椅子や枕、クッションなどを置いて座ります。椅子に座ることもあります。いずれも身体から力を抜いて、背筋を伸ばして、自然な形の身体のうえに、一番重たいであろう頭がちょこんと乗っているような、そんな感じで座ります。目をつぶると眠ってしまうこともあるので、目はすこし開いて斜め下あたりを眺めています。唇と細くして静かにゆっくりと息を吐きだし、その後自然と静かに息を吸います。私の場合は4つ数えて息を吐きだし、8つ数えて息を吸います。これで12秒ですから、1分で5回繰り返すことができます。20分座ろうとすれば、これを20回繰り返せばよいのですから、100回の呼吸を繰り返すことになります。指導してくださる牧師がタイマーではかってくださるので、終わりを考える必要はありません。何も考えない、ということはなかなか難しいことが分かってきます。今日の出来事、少し前の出来事など思いめぐらすことになります。あるいは少し先のこと、心配していることなどを思いめぐらすことにもなります。しかしそのような中でも、たとえば、遠くに聞こえている鳥の声、風が窓をたたく音、自分の息づかい、部屋の時計の病秒針の音に耳を澄ませます。自分の体を流れる血液を感じる、動いている心臓の鼓動を感じる、細胞の一つひとつが生きていること、神さまに生かされていることに感謝する。そんな風に、その瞬間に心を込めるという「座る」を体験するのです。過去のことも、将来のことも神さまにゆだねて、今この瞬間に心を込めるのです。
人生は待ち時間の連続ですが、それをただの待ち時間として意味のないものとしてしまうならば、人生の多くは意味のないものになってしまうかもしれません。待ち時間をどう過ごすのか。待ち時間の瞬間瞬間に心を込めることは、人生を豊かにするのではないか、と思います。
「いと高き所から力を着せられるまで」。
その瞬間に心を込めて座る者に、神さまはいと高き所からの力を注いでくださいます。