静まりの時 ヘブル9・23~28
日付:2023年03月18日(土)
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。
(ヘブル9・27,28)
キリストが「多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ」てくださったのは、十字架の出来事のことでしょう。「二度目には」は、復活のことかもしれませんが、「現れてくださいます」と未来を語る言葉なので、再臨のことを表していると考えるのが自然な感じがします。
この「現れてくださる」は、原文では「見る」という言葉の受け身形となっています。それで「見られる、現れる」と訳されています。(例えばマルコ9章4節に、山上で光り輝かれるイエスさまにモーセとエリアが現れる場面が記されていますが、この「現れる」と同じ言葉です。)
この2度目の「現れ」は、「罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために」現れてくださいます。共同訳2018では「罪を負うためではなく、救いをもたらすために、ご自分を待ち望んでいる人々に現われてくださる」と訳されています。イエスさまを待ち望む者たちの「救い」のために現れてくださるのです。
私たちは、イエスさまの十字架による罪の赦しを信じることによって、救われるのです。しかしまた、復活され昇天されたイエスさまが、再びこの地に来て下さり、私たちに現れていくださったとき、すなわち再臨において救われる、あるいは救いが完成するということも聖書は語っているのだと思います。今はまだ救われていない、ということではありません。救いをいただいているのです。しかし日々の歩みが依然問題を背負いながらのものであることも事実です。そのような日々の歩みが完全に救われる、その時がやって来るのです。イエスさまの十字架を信じたということは、この待ち望みの人生へと招かれたということでもあるのですね。ですから主にある者は、どのような中にあっても希望を失うことがありません。「愛は・・・すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます」(第一コリント13章7節)。
「母を求むる赤児のごとく 巣を恋い慕う小鳥のごとく」「今か今かと御足の音に 耳を澄ましてこの身は待てり」(新聖歌150)
昨日はお祈りいただいたご高齢の姉妹の手術が無事終わったと連絡をいただきました。大腿骨にチタンの添え木を入れる手術で半身麻酔なのでしょうけれども、うつらうつらとしているうちに終わったとのことでした。お元気にされています。感染症対策の中にあってお見舞は許されませんが、続いてお祈りください。感染症と血栓による不具合が起こらないように。4月上旬が退院の目標とのことでした。また11月に職場の事故で入院中の兄弟(大型トラックの運転者でPAのご奉仕をいただいています、との説明で想像していただけるでしょうか)からもご連絡をいただきました。脊椎の圧迫骨折のようです。血液の状態が整えてからの手術だったので長い入院となっているとのことでした。足のしびれが依然あるようですが、リハビリに入り4月には退院、5月には礼拝に戻ってくることができるとのことでした。またこの2~3年企画しつつ実現できなかったクリスマスコンサートができそうです。昨日依頼していた講師の先生から快諾をいただきました。12月9日(土)の予定です。あわせてお祈りください。
今日は備えの日。明日は主の日です。祝福を祈りつつ、よい備えの日をお過ごしください。