静まりの時 詩篇80・8~19
日付:2023年03月09日(木)
万軍の神 主よ 私たちを元に戻し
御顔を照り輝かせてください。
そうすれば私たちは救われます。
(詩篇80・19)
「私たちを元に戻し」は、共同訳では「私たちを元に返し」となっていますので、捕囚からの帰還のことを語っているようです。「そうすれば私たちは救われます」と続きますので、捕囚から解放され、もと通り祖国での生活が保障されることによって「救われる」ということでしょう。
救いとは何であるのか。イスラエルにとっては捕囚という苦しみから解放されること。そのように困難から解放されること。たとえば人生の問題が解決すること、病気が癒されること、行き詰まった経済が回復すること、人間関係が良好となること、などなど、私たちなりにさまざまな救いのかたちを考えます。
確かにそういうことごとも救いであると言えるかもしれません。しかし私の願う救いが、必ずしも私にとって本当に救いであるのかどうか分からない問題もあります。エリアは苦しみの中で死を望みました(第一列王記19・4)。しかし死が与えられることがエリヤを救うことではないでしょう。人間は自分にとって何が救いであるのかを知らないのです。また社会の中で生かされている私たちは、自分が幸せになることによって、誰かを不幸にすることもあります。自分にとって救いの実現が、誰かを犠牲にする、ということもあるでしょう。
ここで詩篇は「御顔を照り輝かせてください」と祈っています。そうすれば「私たちは救われます」と。確かに捕囚からの帰還を願ってはいるのですが、それとともに「御顔の輝き」すなわち神さまが神さまとなって下さること、まことの神さまらしくなって下さること、を願っているのです。
自分たちが捕囚からの帰還することによって、神さまが神さまであることが明らかになると信じているのだと思います。しかし捕囚からの帰還が実現したけれども、結局神さまが神さまであることが確かにされなかった、ということであれば、それは「救い」ではないと詩篇は語っているのです。
たとえば問題が解決された、病気が癒された、受験に合格した、という願いの実現があったとしても、そこで「御顔が輝く」ということがないならば、それは「救い」ではないというのでしょう。
イエスさまは主の祈りの中で「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈りなさい、と教えてくださいました。私の願い通りのことが実現されなくても、神さまのみこころが行なわれるならば、そこに私の救いを発見する、そういう信仰に生きるようにと私たちは招かれているのだと思います。今日も、御顔を輝かせてください、と祈って一日を出発したいと思います。