静まりの時 エゼキエル15・1~8
日付:2023年03月08日(水)
わたしが彼らに顔を向けるそのとき、あなたがたはわたしが主であることを知る。
(エゼキエル15・7)
ぶどうの木のたとえは、多くの場合良い意味で使われているように思いますが、ここではちょっと違った意味で使われているようです。ぶどうの木は他の木にくらべて何の役にも立たない、その役に立たないぶどうの木だけれども、かろうじて薪として燃やされるときに役に立つ。しかしその薪として使用されることによってのみかろうじて役に立つぶどうの木も、すでに燃やされてしまった残りかすのような状態では、何の役にも立たないであろう、と。イスラエルは神さまの「信頼を裏切った」ので、このような荒廃をエルサレムにもたらす、と神さまは言われたのです。
そのもはや何の役にも立たなくなった状態に置かれてはじめて「あなたがたはわたしが主であることを知る」と神さまは言われました。
神さまが主であることを知る。それは人間にとって幸いなことです。その幸いなことを人間はどのようにして知ることができるのか。それは自分がもはや何の役にも立たなくなったと思われる状態の中に置かれた時、知ることができるのだ、と言われたのではないかと思います。
自分の能力を過信し、自分が何者かになったかのような気分の中にある時は、神さまが主であることを知ることができないのです。そのよう中での行動は、結局のところ自分が主であることを確かめるための行動なのです。どんなに素晴らしい奉仕をささげていても、どんなに有能な働きとその結果を実現したとしても、結局は自分が中心なのです。
だからこそ絶望的な状況の中にある時にこそ、神さまが私の主であることを知ることができるのです。自分に絶望したときにこそ、神さまが主であることを知るのです。
「肉は狡猾で、人を引きつけ、おとしいれ、だます。そしてその唯一の目的は、つねに自分である。ところが神の恵みは単純におこない、悪をことごとく避け、罠をかけない。その最高の目的として、ただ神への愛のためにおこない、そこに休息を見つける。」
(『キリストにならう』、バルバロ訳)
昨日は久しぶりに本部を会場に牧羊会(団体の牧師会)が行なわれました。カルト問題についての学びの時もありとても充実した交わりの時でした。カルトは、恐怖、搾取、拘束によって、人を捕えていく、ということを若松英輔の言葉として学びました。聞きかじりですが、佐藤優が書物の中で、カルトは恐怖や不安、暴力的な洗脳によって人を捕えていくが、まっとうな宗教は、自己犠牲的な感化によって人を導く、という言葉にも通じるものがあったと思いました。これは他人事ではなく、教会自体がカルト化してしまうことの問題にも警鐘を鳴らしているように思います。
良い天気がつづきずいぶん春めいてきました。