このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ

静まりの時 ヨハネ12・27~36
日付:2023年02月18日(土)

「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。
 『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。
 いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。
 父よ、御名の栄光を現してください。」
すると、天から声が聞こえた。
「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」
(ヨハネ12・27,28)

 「さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた」(12・1)、「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された」(13・1)。この「過越の祭り」において、イエスさまは十字架にかかられます。
 その時を前にして、父なる神さまに祈っておられます。「今わたしの心は騒いでいる」。騒いでいる自らの心を、父なる神さまの前に注ぎ出しておられます。祈りとは、騒ぐ心をそのままに神さまに注ぎ出すことです。共観福音書にはゲツセマネの園で祈られるイエスさまの苦悩が記されていますが、その祈りを思い起こします。
 どうかこの時から救って下さい、と言おうか。いやいや、このため、すなわち十字架にかかるためにこそわたしは地に降って来たのだ、その時に今いたったのだ。そして父に祈られます。「父よ、御名の栄光を現してください」
 すると、天から声が聞こえました。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう」。まず父なる神さまによって現された時とは、ご降誕の時、あるいはイエスさまの洗礼の時、はたまた山上での変貌の時かもしれません。再び父によって現されようとしている栄光とは、十字架であり、また復活でしょう。復活が栄光であることはよく分かりますが、ここで十字架がことさらに栄光の時であると語られていることは大切なことだと思います。
 神さまの栄光は、十字架において現されたのです。
 栄光どころか辱めでしかない十字架を、神さまの栄光が現れる時、現れた時と聖書は語ります。その十字架の時を一所懸命に迎えようとしておられる子なる神、そして父なる神。私たちはこの神の交わりによって救いをいただきました。
 十字架を避けていては神さまの栄光の時、そして救いの道は開かれなかったのです。イエスさまは、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい、と招かれました。私たちも、私たちなりに小さな十字架を負ってイエスさまに従いたいと思います。そこに神さまのご栄光が現されるのです。

 曇り空の朝ですが寒さがやわらいでいます。感謝です。
 昨日は思いがけず香港からの宣教師宅をお訪ねすることになり、そこで「だいこんまんじゅう」なるものをいただきました。正月に食するものだそうです。なかなかおいしいものでした。そういえば先々週だったでしょうか、旧正月でしたね。アジアを感じました。そのお宅も4人の子どもたちがいて賑やかでした。今は大人になりましたが私たちも子どもが4人でしたので、なつかしい感じがしていました。日本を愛して一所懸命に宣教のために生きておられる姿に感動しました。