柔和な者は幸いです。 その人たちは地を受け継ぐからです。

静まりの時 第2列王記25・1~7
日付:2023年02月01日(水)

1 ゼデキヤの治世の第九年、第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築いた。
2 こうして都はゼデキヤ王の第十一年まで包囲されていた。
3 第四の月の九日、都の中で食糧難がひどくなり、民衆に食物がなくなった。
4 そのとき、都は破られ、戦士たちはみな夜のうちに、王の園に近い二重の城壁の間にある、門の道から出て行った。カルデア人が都を包囲していたので、王はアラバへの道を進んだ。
5 カルデアの軍勢は王の後を追い、エリコの草原で彼に追いついた。すると、王の軍隊はみな王から離れて散ってしまった。
6 カルデアの軍勢は王を捕らえ、リブラにいるバビロンの王のところに彼を連れ上り、彼に宣告を下した。
7 彼らはゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺した。王はゼデキヤの目をつぶし、青銅の足かせをはめて、バビロンへ連れて行った。
(第2列王記25・1~7)

 ユダの王ゼデキヤの末路が書かれています。このゼデキヤという王は、24章によると、バビロンの王によって立てられ人ということです。

17 バビロンの王は、エホヤキンのおじマタンヤをエホヤキンの代わりに王とし、その名をゼデキヤと改めさせた。
18 ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼の母の名はハムタルといい、リブナ出身のエレミヤの娘であった。
19 彼は、すべてエホヤキムがしたように、主の目に悪であることを行った。
20 実に、エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、主の怒りによることであったのである。
その後、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。
(第2列王記24・17~20)

 ゼデキヤは「主の目に悪であることを行った」と書かれています。どのような悪を行ったのかこの個所からはよくわからないように思えます。しかしこの個所からのみ考えるとすれば、「バビロンの王に反逆した」ということではないか、と思います。バビロンの王がユダを滅ぼすことは「主が告げられたこと」でしたから、そのバビロンに反逆した、ということが、主の目に悪を行った、ということになるのではないか・・・。
 主の目に悪を行った、という言葉を私たちが聞くと、どこか倫理的、道徳的に違反した、あるいは異教の神々を拝む偶像礼拝をした、と理解することになりますが、それは突き詰めれば、主のみこころでないことを行った、ということですから、私たちの感覚からすれば少しずれているように思えることも、それが主の語られたことでない場合には、主の目に悪であることを行ったということになるのではないか、ということです。
 この時代、バビロン捕囚は、ユダにとっては、主のなされたことだったのです。ですから恥をしのんで、バビロンに降ることが、ユダにとっては、主のみこころの道だったのです。にもかかわらず、バビロンに反逆してしまった。神の国としてのプライドもあったのでしょう。残された貧しい人たち(24・14)を見れば黙ってはいられなかったのかもしれません。自分の王としての地位がバビロンの王に立てられたといことが、微妙にプライドを刺激してしまったのかもしれません。想像するばかりですが、ゼデキヤはバビロンに反逆したのです。それがゼデキヤの犯した罪であった、ということを聖書は語るのではないか、と思います。

 さて、ゼデキヤの末路は悲惨です。自分を守っていた戦士たちは逃げ出します(4)。王宮から脱出できても、その先で王の軍隊は王を見捨てて離れてしまいました(5)。王家は捕らえられ、王の目の前で、その息子たちが殺されます。その後王は両眼をつぶされました。息子たちが殺されるという光景が、王の最後に見たものとなったのです。そうして青銅の足かせをつけられバビロンに連行されました。
 反逆せずにいたらこのような悲惨な形でバビロンに連行されることはなかったかもしれません。そうでなかったかもしれませんが。どうなのでしょう。

 イエスさまは、山上の説教で次のように語られました。

柔和な者は幸いです。
その人たちは地を受け継ぐからです。
(マタイ5・5)

 柔和とは、柔らかい、ということです。そのような者こそ、地を受け継ぐ、と言われました。地を受け継ぐ。すなわちこの地のあって、豊かに生きる者となる、ということは、柔和さ、柔らかさによって築かれるのだ、というのです。
 この世にあって豊かに生きる、社会的にも、経済的にも、この世にあって、豊かに生きるために、私たちは、どこか、人を押しのけ、自己主張をしっかりとすることを教えられてきたように思います。柔和、などといっていたら負けてしまう。豊かに生きる道を逃してしまう、と教えられてきたのではないか、と思うのです。
 しかし、それに対してイエスさまは、いえいえ、柔和に、柔らかく生きることこそ、この地を受け継ぐ者になるのだよ、と語られたのです。これは驚くべきことです。
 ゼデキヤに当てはめるならば、反逆しようなどといった変なプライドは捨てて、吹く風に揺れる草花のように、右から風が吹けば左になびき、左から風が吹けば、右になびく。バビロンの時代を迎えたらその時代に迎合する。この世の人からは、それでも王か、なんと優柔不断なんだ、敵の王に王の地位をあてがわれて何とも思わないのか、とののしられても、にこにことして、過ぎ去ったことは忘れ、その時々を喜んで生きる。そんな感じです。
 明日のことを思い煩うことなく、何かをコントロールしようとせず、ただ柔らかに生きている。そのような者こそ、この地を受け継ぐのだ、とのイエスさまのお言葉を大切に聞きたいと思いました。

 昨日は月末でしたので、団体の会計処理をしました。牧師たちの賃金台帳を作成し、お世話になっている労務管理事務所にファックス。源泉徴収された所得税、地方税を納めに銀行へ。各種団体会計を処理し、先生たちの活動費、委員会助成金、教会への援助金の支出と分配、などなど。会計年度も新しい年となりましたので、少し業務が多い月です。エクセル関数の奥深さに助けられています。
 銀行と郵便局に向かっていたところ電話がかかって来て、午後1番に会議が入っていました。早々に帰宅しZOOM会議に参加。オンラインは便利ですね。ある教会の会堂購入がテーマでしたが、いろいろとお手伝いすることになりそうです。また県庁、法務局、不動産屋、その合間に理事会の議事録、公告などなど。まあ嫌いな仕事ではありませんが、アドレナリンが出すぎて、また血管が詰まることがないようにと祈りつつですね(笑)。
 運転中に電話がかかって来ると、今までは、出ない、ということで終わっていましたが、しばらく前に軽バンのカーステが故障してしまい、ネットから購入した格安のカーステに新調しましたところ、ブルーツルースでスマホとリンクができ、おかげさまで、簡単に道路交通法に違反することなく通話することが出来ました。と、こんな文章、数年前に読んだら何のことか分からなかったと思いますが、いまは少し分かるようになりました。