イエスのことで群衆の間に分裂が生じた

静まりの時 ヨハネ7・40~44
日付:2023年01月28日(土)

こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。
(ヨハネ7・43)

 「分裂」。共同訳では「対立」。ギリシャ語で「スキスマ」というこの言葉は、辞書によると、割れ目、裂け目、(衣類の)綻び(ほころび)、破れとあり、比喩として分裂(争)、不和、と書かれていました。イエスさまのたとえ話に、新しい衣から取った布で古い衣を補修することの愚かさのたとえ(ルカ5・36~)がありますが、ここにこの単語の動詞形が使われています。真理が来ると、それまであやふやであった物事に光が当てられ、白黒はっきりする、ということかもしれません。あるいは古い教えに新しい教えを接ぎ木しようとすると、互いを駄目にしてしまう、ということかもしれません。律法主義の中にどっぷりとつかっている人間が、新しく福音に生きるということは、そこに「分裂」が起こらざるを得ない、ということかもしれません。
 自己中心に生きている人間が、イエスさまを信じて新しく生きるとき、この「分裂」を経験します。悔い改めをする、ということです。単なる反省ではありません。自分のあり方を180度変えるということです。
 この悔い改めは、いわゆる人間業ではありません。神さまがなしてくださらなければ不可能なのです。神さまがなしてくださらなければ不可能だとして、何もしないであきらめている、ということではありません。礼拝において悔い改めを学び、日々悔い改めに生きるように努めます。そうして悔い改めに努めているということが可能となっている現実のなかに、神さまの働きを信じ、悔い改める者としていただいていることを、神さまに感謝します。
 キリスト者は、全てにおいて感謝するのですが、何よりも感謝することが出来ることを感謝するのです。感謝するということも、神さまがそのように私を導ていていくださるということ。そのような神さまの働きを信じて感謝する、ということです。感謝するといことも神さまのお働きなくしてあり得ないのです。

 そのような人間業から神さまの御業へと視点を移すこと自体が悔い改めに生きるということなのですが、自己中心の人間はこれをよしとしません。どこまでも自分の誉れを求めてしまうのです。ですから自己中心から「引き裂かれる」ような経験が、礼拝生活であるといえるのかもしれません。

 今日は備えの日。明日の礼拝に臨み諸準備がなされます。雪が続いています。昨日は、有志で駐車場の雪解けがなされました。感謝します。しかし今朝見ると、再び白く雪が積もっていました。奉仕に当っている方もどうかご無理のないようにしてください。