静まりの時 ルカ9・37~43
日付:2023年01月27日(金)
37 次の日、一行が山から下りて来ると、大勢の群衆がイエスを迎えた。
38 すると見よ、群衆の中から、一人の人が叫んで言った。「先生、お願いします。息子を見てやってください。私の一人息子です。
(ルカ9・37~43)
「私の一人息子です」。群衆の中から出て来た一人の人は、この言葉を語らずにはいられませんでした。苦しみの中にある息子を抱えた父の苦しみ。何としてでもその苦しみを解決してほしい、苦しみから解放してほしいとの願いが、この「私の一人息子です」との言葉の中に現れているのだと思います。
幾人もいる息子の中の一人、というのではなく、たった一人しかいない、その息子が苦しみの中にある。父にとってみれば、他にはいないのです。替えがきかないのです。
しかし他に幾人かいれば、一人くらい失ってしまってもしかたがないとあきらめることが出来るのか・・・。そうではないと思います。幾人いても、その一人ひとりは、やはりかけがえのない息子なのだと思います。この父の言葉は、とにかく掛け替えのない存在なのだ、との叫びなのだと思います。
主イエスさまはルカの福音書15章4節以降に、いなくなった一匹を捜し歩く羊飼いのたとえを話されました。「その人は99匹を野に残して」捜し歩くと書かれています。囲いに入れて、とは書いていません。一匹を捜し歩く間に、野に残した99匹がオオカミに襲われたらどうするのでしょう。一匹を見つけることが出来たとしても99匹を失うかもしれません。効率を重視するならば人間はこういうことはしないではないかと思います。しかしイエスさまは、神さまの愛はこの99匹を野に残して一匹を捜し求める羊飼いの姿にある、と言われたのです。
これを読んで99匹はどうでもよいと言っておられるのではないでしょう。一匹の価値は、99匹にもまさるほどの価値である、ということが語られているのだと思います。ですから野に残されたとはいえ、他の99匹の一匹一匹も、その他の羊にまさる価値を見出しておられる、ということでしょう。これは、おおよそこの世の方法では計りきることのできない、存在の価値の計り方、なのだと思います。
ひとりの人を大切にしたいと願います。しかしひとりの人を大切にすることが、他の多くの人びとをないがしろにすることにもなる場合にもであいます。そのような判断を許容することを聖書は主張しているのでしょうか。そうではないでしょう。他の多くの人びとも、大切な一人ひとりなのです。
結局、この世の計り方しかできない私たちには、この「一人の人を大切にすること」には限界があるということでしょう。その現実をわきまえ知っていることが大切なのではないか、と思います。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3・16)
神さまは、ひとり子、イエスさまをこの世にお与えくださいました。この「ひとり」の意味は人間には知り尽くせないものがあります。そこに込められている父の悲しみや痛み、そして愛を人間は知り尽くすことが出来ないのです。
「私の一人息子です」。この言葉に込められている父の心を知っておられるのは、神さまだけだったのだと思います。
総会資料がほぼ完成しました。最終チェックをして印刷に入ります。昨日は雪で白くなった田んぼが、青空のもと、キラキラと輝いていました。きょうはまた雪の予報が出ています。