静まりの時 マルコ2・13~17
日付:2023年01月23日(月)
イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
(マルコ2・14)
「アルパヨの子レビ」。マタイの福音書を書いた使徒マタイのことである、といわれます。マタイは元取税人です。この日も取税人の仕事をするために収税所に座っていました。するとそこにイエスさまが通られました。イエスさまはマタイを見て「わたしについて来なさい」と言われました。すると、マタイは立ち上がってイエスさまに従いました。使徒マタイの新しい人生が始まりました。
マタイは朝出かける時に、その一日が新しい人生の出発の日となることを、全く予測していなかったでしょう。取税人としてその職務を果たすための、昨日と同じ日が始まったのです。いつもと同じように一日が始まり自宅を出発し、いつもと同じ仕事をして、いつもと同じように帰宅し終わるはずの一日でした。
しかしそのマタイの予測に反して、新しい出発の一日となったのは、そこにイエスさまが「通られた」からです。そしてイエスさまがマタイを「見」られ、「わたしについて来なさい」とお声をかけてくださったのです。通る神、見る神、語る神、との出会いが、マタイの人生を大きく変えました。偶像の神ではなく、まことの神は、通る神、見る神、語る神なのです。そのように出会って下さる神です。今日もこの神さまが私たちとともに歩んでくださいます。
それにしても、このイエスさまの言葉にマタイがこうも素直に従うことができたのはどうしてでしょう。すでに取税人としての生き方への疑問がマタイの心の中に生まれていた、ということかもしれません。そういうマタイの中に備えがあって、そこに神さまとの出会いが起こった、ということかもしれません。人は見かけによらず、その心の中にさまざまな動きを持っています。
しかし聖書はそういうことを書きません。ですからそういうことが全くなかった、とも想像できます。ではどうしてマタイの中にこのような大きな変化が起こったのか。やはりイエスさまが神さまだからではないか。イエスさまの語られる言葉には、かたくなな人の心を砕き、その人を変えることのできる力がある、ということではないか。聖書の言葉には、そのような力がある、ということではないか、とも思います。
このマタイの変化は、さらにマタイのまわりに大きな変化を生み出しました。マタイは、自宅を解放し、仲間たちを集めてイエスさまや弟子たちと食事会を開催したのです。マタイは救われた喜びを分かち合わずにはいられなかったのだ、と思います。
するとパリサイ人や律法学者たちが、この状況を見て、なぜイエスという男は、取税人や罪びとたちを食事をするのかと、イエスさまの弟子たちに問いました。食事を共にするということには、多分に宗教的な意味があったのです。戒律に厳格なパリサイ人や律法学者たちは、取税人や罪びととは食事を共にしなかったようです。
その問いにイエスさまは答えて下さいました。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(17)
イエスさまは、正しい人ではなく、罪人を招くために来た、と言われました。イエスさまの招きの中に生きるためには、自らが罪びとである、ということ、正しい人ではない、ということが必要である、ということでしょう。
自らは正しい人ではなく罪びとであると告白すること。これは自らが罪びとであると開き直って生きることではありません。罪人であると開き直ることは、罪人であるということを、正しい、としていることであって、結局自らを正しいとしていることでしょう。
自らを正しい人ではなく罪びとであると告白することは、自らの罪に悲しんでいなければなりません。自らの中に問題があり、それを神さまに解決していただかなければならないと、していなければなりません。
自らの罪を悲しむことのできる人は、他者とともに生きることができる人ではないでしょうか。自らの罪を悲しむ人は、相手を自分よりもすぐれた人とし、他者を尊重することが出来るようになるのだと思います。
今週は寒くなるようです。