見よ。主を恐れること、 これが知恵であり、 悪から遠ざかること、 これが悟りである

静まりの時 ヨブ28・23~28
日付:2023年1月19日(木)

23 神は知恵の道をご存じであり、
 神こそ、それがある場所を知っておられる。
24 それは、神が地の隅々までを見渡し、
 天の下をことごとく見ておられるからだ。
25 神は風に重さを与え、
 水を秤で量られた。
26 神は雨のために法則を、
 稲光のために道を決められた。
27 そのとき、神は知恵を見て、これを見積もり、
 これを確かめ、調べ上げられた。
28 こうして、神は人間に仰せられた。
 「見よ。主を恐れること、
 これが知恵であり、
 悪から遠ざかること、
 これが悟りである」と。
(ヨブ28・23~28)

 ヨブ記28章は、「知恵の賛歌」(共同訳2018)、「神の知恵の賛美」(新共同訳)と表題がつけられているところです。この後はヨブの言葉、エリフの登場、そして嵐の中からの神さまの語り、と続きますので、28章は三人の友人とヨブとの対話の締めくくりのところに位置しているようです。
 聖書は知恵を私たちに語ります。人生を生き抜く知恵を語ります。哲学的な言葉も書かれていと思います。難解な言葉もありますし、すぐに心の中に入って来る言葉もあります。
 聖書の語る知恵の急所は「神は知恵の道をご存知である」ということだと思います。私たちは聖書を読んで自らのうちに知恵を蓄えるのですが、しかしそうして自分が知恵者になっていくというのではなく、神さまこそ知恵の道をご存知なのだ、ということを知る、ということなのだと思います。聖書の知恵に満たされている人というのは、如何に神さまが知恵の道をご存知であるのかを知っている人である、ということです。
 神さまこそ知恵の道をご存知である、この世界を見渡しておられる、すべての事をご支配されている。森羅万象に起こる現象もその御手の中にあるのだ、ということを知る。それが聖書を読んで知恵をいただくということなのです。
 ですから本当に知恵を得る人というのは、主を恐れる(畏れる)、のです。主を恐れる者は、自らが何者であるのかを知らされます。つまり自分を知る者となるのです。自分を知る、自分の力の限界を知り、知恵の足りなさを知る。自らの限界を知る。そうして「悪」から遠ざかる者となるのです。
 悪から遠ざかる、ということは、犯罪や倫理道徳的な違反から遠ざかるということでもありますが、果たして人間は悪を知っているのか。悪を判断することが出来るのか。悪と思ってもそこに善があるかもしれません。逆に善と思っても悪が潜んでいるかもしれません。悪をご存知なのは神さまご自身です。ですから悪から遠ざかる、ということは、自らが悪を判断することには限界があるので、神さまにお委ねする、ということでしょう。神さまのみこころを問うということでしょう。これは神さまとともに歩むということがなければできないことです。

「ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。・・・』」(ルカ10・21)

 幼子となり主とともに歩む者こそ、本当の知恵者なのです。