しかし火の後に、かすかな細い声があった

静まりの時 第一列王記19・9~18
日付:2023年1月18日(水)

主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」
するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。
(第一列王記19・11,12)

 肉体的にも精神的にも、そして霊的、信仰的にも力を失っている預言者エリヤ。そのエリヤに神さまはお出会いくださいました。その出会いは不思議です。
 「外に出て、山の上で主の前に立て」との御声は確かに聞こえているのです。その御声が響いてきた瞬間に、主が通り過ぎられました。主が通り過ぎられたことは「激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた」という被造物に起こった圧倒的なことを通して明らかになっています。しかしその「風の中」に主はおられなかった、といいます。さらにその風の後に地震が起こりました。しかしその地震の中にも主はおられません。地震の後に火があったといいます。どのような火であったのかわかりませんが、その火の中にも主はおられませんでした。
 おおよそ人間ならば心揺さぶられる大きく激しい出来事の中に、神はいない、と聖書は語ります。そのような中に神さまを見つけようとしても、偶像の神ならいざ知らず聖書の神さまは見つけられないのだ、というのです。

「しかし火の後に、かすかな細い声があった。」

 聖書の神さまは「かすかな細い声」をもってエリヤにあらためて語り始められました。この「かすかな細い声」で語られる神さまとの出会いを通してエリヤは新しい出発に導かれます。
 神さまとの出会いといっても、エリヤにとっては初めての出会いではありません。すでにここまで神さまの預言者として生きてきたのです。しかし失意の中にあったエリヤは、ここであらためて神さまにお出会いしました。それは「かすかな細い声」で語られる神さまとの出会いでした。もちろん同じ神さまです。しかしこの「かすかな細い声」で語られる神さまとの出会いが、新しい力を与え、新しい出発をエリヤに与えたのです。
 私たちも、この「かすかな細い声」で語られる神さまとの出会いによって、新しい力をいただきます。

 「かすかな細い声」を聞くためには、大嵐や地震や火といった「大きな声」から身を引き、静かな中に身を置かなければなりません。そうでなければ聞き逃してしまうほどの「かすかな細い声」なのです。まったくの静けさの中に身を置くのです。
 時々参加させていただく牧師たちの静まりの会では、20分の静まりの時があります。20分を沈黙するというのは、最初はなかなか難しいというか、しんどいことに感じました。しかしすぐになじんできました。鼻で息を吸うのに5秒、口を細くしてゆっくりと息を吐きながら10秒を数えます。それで15秒ですから、これを4回繰り返すと1分になります。20分はこの20倍で、つまり80回、この呼吸を繰り返すということになります。
 しばらくすると、自分の息づかいが聞こえてくるようになります。自分の心臓の鼓動や、空気の流れる音、電灯の発するかすかな音、鳥の声、遠くからの生活音などなど。沈黙といっても案外この世界にはさまざまな音があります。そのような静けさに身を置きながら、さまざまなことが心に思い巡って来ます。抱えている問題、最近の出来事、いろいろな人との関係、自分の語った言葉、なしたこと、・・・。思いはどんどん飛んで行ってしまいますが、その一つひとつを解釈せず、ただ主の前にそのままを振り返っていきます。解決しようとせず、理由付けをしようともせず、ただそのままを主の前に振り返っていくのです。そうしてその一つひとつが主である神さまの御手にあることを思い巡らします。そうしてあらためて神さまの愛に出会います。何一つ解決がなくとも、すべてのことが神さまの愛の御手の中にあることを確かにするのです。
 静まりの会では、与えられた聖句をこれも数時間をかけて思い巡らします。それぞれが自分の場所で聖句を思い巡らします。ある人は施設の自分の部屋で、ある人は外に出て施設を取り巻く森の中で・・・。私は、たいていセミナーが行なわれる公け的な部屋で聖句を思い巡らします。ただ読むだけでは私はなかなか集中できないので、与えられた聖句をノートに書きうつします。一字一字を黙読してはノートに書き写すのです。いままで読んだところでも、あんがい思い込みがあって新しい発見があります。また書き写すことで、なにか身体全体で聖書を読むような感覚も生まれてきます。そうして気がつけば予定の時間が迫っていたということになります。
 聖句の思いめぐらしこの中で教えられたことを、あとで参加者同士で分かち合うこともありますし、分かち合わないこともあります。リーダーの判断や時間の問題でいろいろですが、私はどちらにも意味があるように思います。いずれにしてもかすかな細い声を聞くことの喜びがあります。

 この静まりの時と題してのデボーション。朝の短い時間を、聖書を読んで過ごすことも、かすかな細い声を聞く喜びのときです。