静まりの時 出エジプト19・3~9
日付:2023年1月17日(火)
モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。
「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。
『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』
これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」
モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをすべて、彼らの前に示した。民はみな口をそろえて答えた。
「私たちは主の言われたことをすべて行います。」
それでモーセは民のことばを携えて主のもとに帰った。主はモーセに言われた。
「見よ。わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む。わたしがあなたに語るとき、民が聞いて、あなたをいつまでも信じるためである。」
それからモーセは民のことばを主に告げた。
(出エジプト19・3~9)
モーセは神さまとイスラエルの民の間に立って、仲介者のようにそれぞれの言葉を取り次ぎます。民は直接、神さまを見ることが出来ません。ただモーセから語られる神さまの言葉を聞くだけです。民は、モーセの語るその言葉を神さまの言葉と信じ、その言葉を実行することを命じられたのです。
民がモーセの語る言葉を神さまからの言葉と信じるためには、民自身がモーセ自身を信頼することが必要です。どのようにしてモーセへの信頼をはぐくみ保つのか。神さまはモーセに向かって「わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む」と言われました。神さまがモーセに「濃い雲の中にあって」臨んでおられる、ということ、そのようにして神さまがモーセに語っておられるということ。そのことによって、民はいつまでもモーセを信頼し、モーセが語る言葉を神さまの言葉として聞くこととなる、と神さまは言われたのです。
日曜日の礼拝において牧師が説教を語ります。会衆はその言葉が神さまからの言葉であると聞きます。会衆はどうしてその言葉が神さまからの言葉であると信じるのか。それは語る牧師への信頼から生まれるものでしょう。では牧師への信頼はどのようにして生まれるのか。牧師がいつも優しくニコニコしているからか。聖書への知識を豊かに持っているからか。身を粉にして教会奉仕にいそしんでいるからか。愛深い働きを展開しているからか・・・。
会衆が牧師の語る言葉を神のことばとして聞くのは、牧師自身が「濃い雲の中」で臨んでくだる神さまからおことばを聞いていること、によるのです。いわば牧師の、密室の祈りとみことばの黙想、にかかっているのです。この密室は「濃い雲の中」なので、会衆からは見えません。見えないからといっておろそかにしているならば、会衆の牧師への信頼は育まれません。主の日の説教が30分とすると、それをはるかにしのぐ時間を「濃い雲の中」での神さまとの交わりに費やされていなければなりません。
牧師は、礼拝説教において、神さまの愛を語ります。神さまの愛を語るためには、神さまを愛していなければなりません。神さまを愛さずに説教を語ろうとすると、教理の説明や聖書の解説となってしまいます。また神さまの愛は、単に感情的なものではなく、全能と義に満ちています。ですから聖書を通して愛を語らなければなりません。そのような愛を語るためには、教理と聖書への知識が欠かせません。牧師は、神さまとの「濃い雲の中」での交わりによって、それらを育んでいきます。これは牧師と召されて以来、生涯止むことのない営みです。そうして会衆は、牧師への信頼をかたむけて神さまの言葉に出会うのです。
「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」
神さまの言葉を聞き、それに従い、神さまの契約を守るならば、この地にあって「神の宝」となる、と神さまは言われました。礼拝において神さまのみことばに聞き従い、そのお約束に生きる者を「神の宝」と神さまは呼んでくださるのです。私たちは神さまの大切な宝なのです。
神さまのお言葉を聞き、それを守るという私たちの「行い」によって、「神の宝」となる、というのとは少し違います。神さまはこの言葉に続いて「全世界はわたしのものであるから」といわれました。すべてのものは神さまの御手の中にある、今のすべてをその御手によって支配しておられる、だから、み言葉に生きるならば、神の宝、となる、と聖書は語るのです。神さまの御声に聞き、神さまの契約を守るということも、神さまのおゆるしと神さまの愛のお働きの中にあるということです。そしてそのことを感謝するのです。そのような中に私たちの信仰生活は前進します。
ある祈りに「神さまに感謝することが出来ることを感謝します」というものがあります。感謝する、という自律的な行為も、神さまがそのようにしてくださったのだ、と感謝する、という祈りです。私たちはこのような祈りに生きるようにと招かれています。