静まりの時 イザヤ44・6~8
日付:2023年1月16日(月)
イスラエルの王である主、これを贖う方、
万軍の主はこう言われる。
「わたしは初めであり、
わたしは終わりである。
わたしのほかに神はいない。
・・・
おののくな。恐れるな。
わたしが、以前からあなたに聞かせ、
告げてきたではないか。
あなたがたはわたしの証人。
わたしのほかに神があるか。
ほかに岩はない。わたしは知らない。
(イザヤ44・6,8)
「贖う」とは、奴隷状態の中にある者を解放することです。そのために支払われる代価を贖い金といいます。神さまはイスラエルを、その奴隷状態から解放される方である、と聖書は語ります。イスラエルは、捕囚の苦しみから解放される、解放してくださるのは神さまである、神さまはその為の贖い金を支払って下さる、と。
その神さまが、わたしは初めであり、終りである、ほかに神はいない、と語られました。神さまのおられない時はない、すべての「時」の支配者である、と。
その神さまが「あなたがたはわたしの証人」である、と語られました。イスラエルは神さまの証人、証し人なのです。それは以前から聞かせられ、告げられてきたことでした。その証し人であるということは、奴隷状態から贖われる、という事態を経ても変わることがない、と言われるのです。あるいはむしろ奴隷状態から贖われるという経験をいただいて、なおさら証し人としてのあり方が確かにされた、ということかもしれません。
証し、というのは、いわゆる立派な生き方を語る、ということとは少し違います。目に見えない神さまが実はおられて生きて働いておられることを語る、というが証しです。それは、もちろん私の生き方を通して神さまのすばらしさが語られるということですから、いわゆる立派な生き方が語られるということもあるでしょう。
しかし神さまが生きて働いていてくださること、その神さまの働きとは一体なんであるのか。超自然的なことが起こる、病が癒される、不思議な出来事が起こる、などなど。そういうこともあるかもしれません。しかし聖書の語る神さまの最大のみわざというのは、罪人であった私を救ってくださった、自らの罪の中で滅びるしかなかった私が永遠のいのちをいただいた、そのために悔い改める者となった、ということでしょう。神さまはそのような「私に起こった奇跡」のために、御子イエスさまをこの地に遣わし十字架と復活のみわざを為してくださった。これが神さまがなしてくださった最大のこと、あるいはなくてはならない唯一のことなのです。
ですからそのような「私を贖って下さった神」を証しするためには、贖われた者である、ということが大切なことでしょう。つまり自分は罪の奴隷であったが、神さまに救っていただいた、という信仰の歩みが必要なのです。それは、ある人にとっては、罪の奴隷の状態のときの悲しみや苦しみ、恥ずかしい経験を話すことになるかもしれません。しかし必ずしもそのような経験を話す必要はないと思います。自分と神さまとの間だけのことでいいと思います。ただ贖っていただいたという信仰の経験はどうしても必要です。この経験があるかどうかは、今自分が罪びとであるというへりくだりをいただいているかどうかで明らかになるのだと思います。
「おののくな。恐れるな」と語られています。罪人であると同時に義認とされた者。その恵みに胸を張って生きていけばよい、と私たちは招かれています。
昨日は主の日、礼拝の日でした。礼拝後は各会の交わりが行なわれました。3年ぶりでしょうか。女性会では食卓を囲んでの交わりも行なわれました。黙食の中でしたが、たいそう和やかで楽しい雰囲気が伝わってきました。
昨日は「カナンの女の信仰」と表題がつけられている聖書箇所を礼拝のお言葉として学びました。神さまの拒絶と思えるような事態を前にしても、果敢に祈り続けるお母さんの大きな信仰。そのような信仰を引き出してくださったイエスさまのご忍耐とこの母への信頼を学びました。
先週から何回かに分けて「ドリーム」という映画を観ました。1960年代の米国、人種差別の中、その壁を打ち破ることになる人たちの姿が熱く描かれている実話をもとにした映画です。宇宙開発において何度も困難が起こりプロジェクトは行き詰ります。しかしその行き詰まりを、それまで下働きしかさせてもらえなかった黒人女性たちが、豊かな才能を発揮して困難を打開し、行き詰まるプロジェクトを鮮やかに前進させるのです。この女性たちの姿が、昨日学んだ「カナンの女」と重なるような気がしていました。彼女たちは、あきらめず、ときにあつかましく前に向かって行くのです。何度も目頭を押さえる場面が出てきました。
これとともに「グリーン・ブック」もおすすめです。