それらの間に切り株が残る

静まりの時 イザヤ6・1~6
日付:2023年1月14日(土)

そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔。
(イザヤ6・13)

 イザヤ6章は、預言者イザヤが神さまから預言者としての召命をいただいたところです。
 神さまに出会ったイザヤは思わず叫びました。

「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王を この目で見たのだから。」(5)

 神に真実に出会う、ということは、このような反応を人間に与える、ということでしょう。あるいは真実に生きようとする人間が、神に出会うとすると、このような反応をしてしまう、ということでしょう。

 そのようなイザヤに神さまは、ご自身のお言葉を語るように、と命じられました。神さまは言われます。

「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。
この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」
(9,10)

 いわば神学校を卒業した伝道者に、福音を語りなさい、しかしあなたの語る言葉を人びとは聞かない、回心しない、むしろ心を頑なにし、悟ることも、立ち返って癒されることもない、と言われたということでしょう。そのように神さまがすると言われたのです。何と厳しい言葉でしょう。預言者イザヤそのような召しを神さまからいただいて野に出ることとなりました。

 イザヤは問います。「主よ、いつまでですか」。
 すると主は不思議な言葉を語られました。「町々が荒れ果てて・・・」。つまりこの世界は滅んでしまう、と。しかし

「切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔」(13)。

 すべての木々は切り倒されてしまう。しかしそうして残った切り株こそ、聖なる裔。「裔」とは、子孫のことでしょう。新共同訳では「聖なる種子」、共同訳2018では「聖なる子孫」と訳されています。つまりここに記されているのは、滅びが生み出す再生、再出発、ということではないかと思われます。いったんすべてがリセットされ、もう一度一から始まる、ということです。神さまがそのように始めてくださる。今の「滅び」はそのための大切なことなのだ。イザヤよ、あなたはこの大切なターニングポイントに立っている、そこで神の御言葉を語るのだ、と神さまは語られたのです。

 この滅びこそ新たな始まりなのだ、と、神さまは語られたのだと思います。滅びの中に新しい始まりをイザヤは知らされ、その希望を語るように神さまに召されたのだと思います。
 キリスト者は、みなこのような召しを神さまからいただいているのだと思います。過去の罪の延長線上から、神さまの前に悔い改め、人生が滅ぶような経験をし、しかしそこから新しく出発させていただくのです。そうして始まった新しい人生こそ、永遠のいのちに生きるすばらしい人生なのです。

 今日は備えの日。明日は主の日、礼拝の日です。良い備えの一日を送り、あすの主の日を迎えましょう。