静まりの時 マタイ11・25~30
日付:2023年1月13日(金)
そのとき、イエスはこう言われた。
「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。・・・」
(マタイ11・25~27)
「これらのこと」とは、それまで語られてきたことだと思いますが、ここではざっくりと、福音のこと、と考えてよいでしょう。福音に生きること、イエスさまを信じること、は、「知恵ある者や賢い者」には隠れているのです。では誰に明らかにされるのかというと、それは「幼子」である、とイエスさまは言われました。もし福音に生きようと願うならば、幼子にならなければなりません。この聖句に続く聖句、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は・・・たましいに安らぎを得ます」というすばらしい人生を送るためには、幼な子にならなければならないのです。
自分を賢いとする者は、イエスさまのもとになかなか重荷を降ろすことが出来ません。自分の力で何でもできると思っているからです。自分の判断力こそ確かであると思い込んでいるからです。幼な子のようになる、自分を賢い者としない、それはなかなか難しいことですが、そこに平安な生き方が生まれます。
「父のほかに子を知っている者はいない」。イエスさまのことを本当に知っているお方は父なる神さまだけであると言われました。また、「子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません」。父を知っている者はイエスさまと、イエスさまが父を現そうと心に定めた者だけである、と言われました。私たちが、父を知っている、ということであれば、それはイエスさまが父を現そうと心に定められたからだ、すなわち、イエスさまが父なる神さまを知ることができるようにしてくださったのだ、と言われたのです。
知る、という心の動きは、私が自律的にそのように心に定めて初めて起こることですが、神さまを知ることにおいては、それは神さまのみわざである、というのです。おおよそ被造物を知るということは、同じ被造物である私の「行動」ですが、神を知るという場合においては、それは神さまの「行動」であるというのです。なぜなら、神さまは被造物ではなく創造主であり、全能なるお方だからです。もし神を知るということが、私の賢さによって実現したとすれば、そこで知ったと思い込んでいる神は、私の認識力の前に服している神であって、それは偶像の神と言わざるを得ません。
ですから、創造主であり、いまもすべての事を治めておられる神を知る、ということは、私の賢さを捨てて、幼な子になって、ただ「神さまが知らせてくださったのだ」とへりくだることによってのみ実現することなのです。
神さまを信じる者としていただいたことを感謝したいと思います。神さまがそのように心に定めてくださったからこそ神さまを信じることが出来たのです。この信仰は神さまが土台ですから揺らぐことがありません。
神さまはすべての人が救われることを願っておられます。すべての人が幼な子となる日を待ち望んでおられます。
昨日は定期の検診の日でした。前回の診察から3か月が経ちました。検査としては血液検査のみがありましたが、おおむね良好ということでした。主治医は、少々数値が悪くても、大丈夫、と言って下さる方です。その楽観的な答えを心もとないと受け取るか、それとも感謝、と受け取るかは微妙ですが、あけましておめでとうございます、から始まった診察の時は、わずかな時間ですが、平安な時でした。待ち時間に読書にいそしんでいると、お声をかけてくださる方がおられました。教会の兄弟姉妹でした。健やかな歩みのために祈ります。次回はまた3か月後になりました。