静まりの時 詩篇1・1~6
日付:2023年01月05日(木)
1 幸いなことよ
悪しき者のはかりごとに歩まず
罪人の道に立たず
嘲る者の座に着かない人。
2 主のおしえを喜びとし
昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。
3 その人は
流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び
その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える。
4 悪しき者はそうではない。
まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ。
5 それゆえ悪しき者はさばきに
罪人は正しい者の集いに立ち得ない。
6 まことに正しい者の道は主が知っておられ
悪しき者の道は滅び去る。
(詩篇1・1~6)
昨年の大みそかにもこの詩篇1編を読みました。今朝も詩篇1編を読むことになりました。何度読んでも心に響く詩篇です。
1 幸いなことよ
悪しき者のはかりごとに歩まず
罪人の道に立たず
嘲る者の座に着かない人。
幸いなこととは、悪しき者のはかりごとに歩まない人のことである、すなわち、新共同訳聖書の訳にならうと、神に逆らう者の計らいに従って歩まない人のことである、と語ります。また罪びとの道に立たない人、さらには嘲る者の座に着かない人。この嘲る者とは、新共同訳聖書では、傲慢な者、のことであると先日は学びました。
あらためて嘲る者ということを思い巡らせてみたいと思います。嘲るということは、傲慢で他者を見下していることである、と先日は学びました。今回は、嘲るという言葉そのものを考えてみたいと思いました。広辞苑では、ばかにして笑う、見下げて悪口を言う、とありました。この悪口ということですが、人を悪く言うことですが、多くの場合は、根拠のないことや、あったとしても取るに足りないことを大きくして、その人物の評価を下げる、ということでしょう。誤ったことが行なわれていることについて批判や非難、追及するということとは少し違う感じがします。
正義を追い求め、社会の平安を守るために、正しい批判や非難、追求することは大切なことです。しかし単に悪口をいうということは、自分自身の悪を満足させるために行ってしまうことなのだと思います。
嘲る者の座に着かない人は、幸いである、幸福である、と詩篇は歌いました。自分の中の悪を満足させるために、悪口を言うということは、その人自身が不幸なのです。幸いに生きる人は、そのような座に着かないのです。
逆に幸いな人は、嘲られる、ということが起こります。私たちの主イエスさまがそうでした。嘲られるということは、うれしいことではありませんし、そのような日々が続くとすれば、幸福な感じはしません。しかし少なくとも嘲るという不幸の中にはないということです。
2 主のおしえを喜びとし
昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。
嘲る者の座に着かない、という生き方は、主の教えを喜びとする人、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人となる、ということでしょう。主の教えを口ずさみつつ、誰かを嘲るということは、矛盾しているのです。誰かを嘲っている、あるいは嘲らなければいられない、ということであれば、それは主の教えを喜びとしている人ではない、ということでしょう。
3 その人は
流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び
その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える。
嘲らないという生き方、その生き方こそ、流れのほとりに植えられた木のように、時が来ると実を結びます。その葉は枯れません。なすことすべて栄えるのです。
昨日は、同じ団体の宣教師の先生がお訪ねくださり、交流の時をいただきました。宣教中での困難や将来についての希望など話して行かれました。お働きの祝福を祈りました。