まことに正しい者の道は主が知っておられ

静まりの時 2022年12月31日(土)
詩篇1・1~6

1 幸いなことよ
 悪しき者のはかりごとに歩まず
 罪人の道に立たず
 嘲る者の座に着かない人。
2 主のおしえを喜びとし
 昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。
3 その人は
 流れのほとりに植えられた木。
 時が来ると実を結び
 その葉は枯れず
 そのなすことはすべて栄える。
4 悪しき者はそうではない。
 まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ。
5 それゆえ悪しき者はさばきに
 罪人は正しい者の集いに立ち得ない。
6 まことに正しい者の道は主が知っておられ
 悪しき者の道は滅び去る。
(詩篇1・1~6)

 「聖書言愛読こよみ」(日本聖書協会)の今年の最後の言葉は、詩篇1編でした。

「幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人」(1)。

新共同訳では

「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず」(1、新共同訳)。

 悪しき者とは神に逆らう者である、と新共同訳では訳されています。善悪の判断は、罪人である人間には限界があります。その時正しいと思ったことであっても、あとであれは間違った判断であったな~、ということはよくあります。まことに正しいお方は神さまだけなのですから、その神さまのご判断に聞いていく、ということが正しい道をつくる、ということでしょう。神さまのお心を知りながらそれに逆らってしまうことが悪を生み出してしまうということなのでしょう。
 問題は、神さまのみこころの道がそう簡単には分からないということです。歴史を見れば、たとえば十字軍などは現在では神さまのみこころではなかったであろうと判断されることかもしれませんが、当時は、これは神さまのみこころなのです、と祈られて兵隊さんたちは出発していきました。
 そうすると、悪しき者のはかりごとに歩まない、すなわち、神さまに逆らう者の計らいに従って歩まない、ということは、常に自分の判断には誤謬が含まれているということをわきまえている、ということが大切なことではないかと思います。自らを絶対視しない、自らが人間である分をわきまえているということでしょう。

 嘲る者の座に着かない人を新共同訳では、傲慢な者と共に座らずと訳されています。嘲るという心は、傲慢が生み出している、ということでしょう。嘲るということは、他者を自分よりも低い者、劣っている者としてとらえたいという気持ちだと思いますが、それは傲慢が生み出しているのです。
 客観的に見て人間にはその能力に優劣は歴然と存在することでしょう。しかし人間としての価値は、そういう能力によって変化するものではありません。すべての人は平等に無限の価値ある存在なのです。その価値観に立つためには、絶対的な基準の前に立つ必要があるでしょう。相対的な中では個人の価値観は揺らぎますが、絶対的な基準、すなわち神さまの前において、この価値観は揺らぎません。人間の価値は、この絶対的な存在、すなわち唯一の神の存在が確認されていなければ成り立たないのです。唯一の神が確認されていない世界では、人間の価値があやふやになるだけでなく、倫理や道徳観もすべて相対的なものとなってしまいます。
 嘲ってしまう、そうしなければ自分が生きていけない、自分の価値が確かにされない、ということは、この絶対的な神さまが確認されていない、あるいは不確かになってしまっているということでしょう。傲慢は、不信仰、すなわち神さまを信じないところに生まれるのです。まさしく風に吹き飛ばされる中身のないもみ殻のような人生を歩むこととなるでしょう。「それゆえ悪しき者はさばきに 罪人は正しい者の集いに立ち得ない」。

 人と比較して浮き沈みのある人生から、あなたは高価で尊い、私はあなたを愛している(イザヤ43・4)という人生に変えられたのですから、私たちは「主のおしえを喜びとし 昼も夜もそのおしえを口ずさむ人」でありたいと思います。またそのような信仰の歩みが、確かで揺るがない平安の中に生きる道をひらくのです。

「まことに正しい者の道は主が知っておられ 悪しき者の道は滅び去る」(6)。

 新共同訳では「神に従う人の道を主は知っていてくださる。 神に逆らう者の道は滅びに至る」と訳されています。ここでも正しい者か悪しき者かは、神に従う人か、それとも神に逆らう人かの違いである、ということでしょう。

 「正しい者の道は主が知っておられる」ということは、正しい道に歩んでいるならば、この世界からどんなにその道が隠れていたとしても、主だけは知っていてくださるのだ、という意味だと思います。
 「主が知っていて下さる」道に歩むか、それとも「滅び去る」道に歩むのか。滅び去るの反対は、滅びない、すなわちいのちに生きる道、と言えると思いますが、聖書は「主が知っていて下さる」、主に知られている道、それが、滅びの反対の道であると語ります。
 主に知られている、主が知っていていくださる、分かっていて下さる、信じていてくださる、愛していてくださる、それこそ幸いな者の道であると語るのでしょう。滅びない道とはそのような道なのです。

「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8・31)
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28・20)

 今年一年もお世話になりました。困難な中に歩まなければならない場面もたくさんありましたし、依然解決できていない問題の中にもありますが、しかしすべて神さまの愛の御手の中にあったことと感謝しています。またそれ以上に数えきれないほどのたくさんの恵みの出来事もありました。感謝です。来る年もどうぞよろしくお願いします。