わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか

静まりの時 2022年12月07日(水)
ヨハネ6・66~71

66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。
67 それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。
68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
69 私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」
70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」
71 イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。
(ヨハネ6・66~71)

 「これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。『これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。』」(59,60)

 イエスさまがカペナウムで教えられると、「弟子たち」のうちの多くの者がつまずきました。そしてイエスさまから離れていきました。群衆が離れていったのではありません。イエスさまを信じイエスさまにここまで付いて来た「弟子」と呼ばれた人たちがイエスさまにつまずきイエスさまから離れていったのです。残ったのは12人のみです。
 イエスさまはその12人に向かって、あなたがたも離れて行きたいか、と言われました。するとペテロは「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか」と答えました。あなた以外に私たちには行くところがない、なぜならあなたは永遠のいのちのことばを持っておられる、私たちはあなたが神の聖者であると信じている、そのことを私たちは知っているのです、と答えました。私たちはイエスさまが永遠の命の言葉をお持ちになっておられ、イエスさまが神の聖者であることを知っているので、イエスさまからから離れません、私たちはあなたを選びました、と言ったということでしょう。それに対してイエスさまは、「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか」と言われたのです。
 神の選びの神秘は、神さまが私を選んでくださった、ということであって、私が神を選んだということではない、という告白にあります。私が私の知恵や知識で神を選んだというのでは、神を選んだことにならない、というのです。本当の神さまならば、私がつかんだ、ということの中に存在するということはありえない、ということでしょう。私の方が神に選んでいただいた、本来ならば選ばれるはずのない私を神さまは選んでくださった、という信仰の告白が、神の選びの中に生きるということなのです。もし私が選んだということに終始することならば、そこで手につかんでいると思っている神は、私好みの偶像の神です。
 この神の選びは、イエスさまを裏切るイスカリオテのユダにまで及んでいます。ヨハネはイエスさまを裏切るユダのことを「12人の一人であった」と言い切っています。この聖句を初代教会の人たちはどのような気持ちで読んだでしょう。ユダに対する断罪の心をもって読んだでしょうか。私は、自らも裏切ってしまうような者であるかもしれないけれども、イエスさまは私を決して見捨てることはなさらないのだ、と読んだのではないかと思います。私が神さまをつかんでいるならば、私の握力には限界があるので、いつかの時にその手が離れてしまうでしょう。しかし神さまが私をつかんでいてくださるならば、神さまの握力は無限ですから、その手が離れることは決してありません。今日も、私たちはこの神さまの御手の中に歩みます。

 昨日は月に一度の牧羊会(牧師会)が行なわれました。コロナ禍でリモートの行なわれてきたのですが、昨日は久しぶりに対面で行われました。20名ほどの牧師、牧師夫人、宣教師が集まり、礼拝と交わり、各教会の祈祷課題の分かち合い、自主研究発表、各種報告の時がもたれました。私たちの教会が今神さまから与えられている大きな課題についても分かち合われました。また入院手術を前にされている先生方の報告もありました。私たちの団体の「柱」には「交わり」があります。この交わりの大切さを考えるとやはり対面で集まることには大きな意味がありますね。
 集まることのできない先生のためには、対面だけではなくリモートでも参加できるようにと、大画面のテレビを設置しました。機械的なことで少しトラブルもありましたが、大きな画面があると、共に同じ場所にある感じがしてよかったです。