静まりの時 2022年12月08日(木)
使徒3・1~10
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
すると、ペテロは言った。
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
(使徒3・3~8)
使徒ペテロとヨハネが「午後3時の祈りの時間」に「宮」すなわち神殿に上って行きました。午後3時の祈りというのはユダヤ教の習慣なのだと思います。
彼らはイエスさまを信じる者となっても、そのような習慣をやめようとは思わなかったようです。彼らにとっては、イエスさまを信じるということは、新しい宗教を信じることではなく、今まで信じて来たユダヤ教の延長線上にイエスさまを信じた、つまりユダヤ教が待ち望んでいた救い主に出会った、ユダヤ教の宗教改革にあずかったということなのでしょう。
するとそこに「生まれつき足の不自由な人」が運ばれてきました。神殿にやって来る人たちから施しをいただくために、置いてもらっていた、とのこと。そこにペテロとヨハネがやって来たので、施しを求めました。すると思いもよらない新しい出会いが始まりました。
ペテロとヨハネは「私たちを見なさい」と言いました。よほどみすぼらしい姿だったのでしょうか(笑)。その言葉に足の不自由なその人は、何かもらえると期待して二人に目を注ぎます。そこで語られた言葉が「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」でした。
そしてペテロがその人の手を取って立たせると「たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって立ち、歩き出し」ました。「そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った」と言います。ここで初めて神殿での礼拝にあずかったということかもしれません。
ペテロたちを「見た」この生まれつき足の不自由な人に、ペテロは私たちを「見なさい」言いました。見ている人に向かって、見なさい、と呼びかけています。何か施しがいただけるだろうかと思って見つめていた「見つめ方」から、新しい「見つめ方」に、ペテロは招こうとしているようです。金銀を求めていた見つめ方から、彼が予想もしていなかった「宝」をいただく者の見つめ方へと招こうとしています。
私たちは何を期待して「見る」ということをするのでしょう。人々を見る時に、そこに何を期待しているでしょう。神さまを見上げるという時に、私たちは何を期待して見ようとしているでしょう。神さまは、私たちが期待しているものをはるかに超える祝福を与えようとなさっておられるのだと思います。私が期待していることが答えられることも感謝だと思いますが、神さまとともに歩むということは、いつもその期待を超えたものを備えていてくださる神さまを信じることなのだと思います。今日もそのような神さまがともに歩んでくださることを感謝します。神さまをいつも私の視点を超えた視点で見上げつつ、一日を歩みましょう。
教会の週報が、教会ゆかりの皆さんに毎月送付されています。教会のためにいろいろなところから祈りの便りが届きます。昨日も遠くから、教会役員会のために、牧師の健康のために、教会全体のために祈っています、と便りが届きました。感謝です。
昨日は夕食に生姜焼きを作ったのですが、うっかりして生姜を入れるのを忘れてしまいました。あとでチューブの生姜をつけならば食することになりましたが、限りなく照り焼きに近い生姜焼きになってしまいました。