静まりの時 2022年12月06日(火)
マタイ8・23~27
23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。
24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。
25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。
26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。
27 人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」
(マタイ8・23~27)
「イエスが舟に乗られると、弟子たちも従った」。弟子とは、イエスさまの後に従っていく人たち、という意味です。イエスさまが舟に乗られるならば、自分たちも舟に乗る、舟を降りられたら、自分たちも降りる、といった具合に、イエスさまの後に、ただ、従っていく人たちです。主にある者はみなイエスさまの弟子ですから、今日もイエスさまが歩まれるその後を歩んでいきたいと思います。イエスさまの背中を見つめながら。
「すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった」。イエスさまの行かれる道のその後を歩むことであっても、嵐に出会います。その舟が沈みそうになることもあります。イエスさまを信じて歩み始めた信仰生活においても嵐がある、のです。
「ところがイエスは眠っておられた」。その嵐の中にあってイエスさまは眠っておられます。枕して(マルコ4・38)、すなわちぐっすりと眠っておられます。弟子に求められるのは、このイエスさまから目を離さない、ということでしょう。嵐の中にあっても、全き平安をお持ちのお方がともにいて下さる、ということを見失わない、ということです。それはまた今出会っている嵐が、自分たちのいのちを奪うような嵐ではない、と言い切ることでしょう。こんなの大したことはない、大丈夫、と安心することでしょう。
「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」。この時弟子たちは、嵐を見て恐怖します。無理もないことです。彼らはイエスさまを起こしました。イエスさまにおすがりしました。弟子たちは、嵐に出会って行き詰まる心を、イエスさまのところに持って行ったのです。ほかに持って生きようがなかったのだと思いますが、ほかに持って行かなくてよかったですね。彼らはただイエスさまのみに御頼りします。
「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち」。この事態の中で怖がらない方がおかしいのではないでしょうか。しかしイエスさまはこのように言われました。弟子たちは、叱られたように感じたでしょうか。確かにそう感じたかもしれません。しかしイエスさまが「叱られた」のは、風と湖に向かってでした。弟子たちを悩ませているその問題自体を叱りつけて下さったのです。するとすっかり凪になりました。悩ませられた問題はすっかり解決しました。
信仰の薄い者たち、と言われなければならなかったような弟子たちの願いにイエスさまは答えて下さいました。私たちの神さまは私たちの信仰の薄さにかかわらず、祈りに答えて下さるお方です。
「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか」。驚きが広がります。風や湖までもを支配されている姿を目の当たりにして、まことにこの方こそ神さまだ、といったのではなく、「いったいこの方はどういう方なのだろうか」と疑問を持った、というのです。恐らくそれは疑問というよりも、驚き、といった方がいいのだと思います。本当に神さまのみわざに、そして神さまご自身にお出会いしたとき、人間はただ驚くしかないのだと思います。旧約聖書に登場する神さまに出会った人びとは、みな、ただ驚いた、時には恐怖した、と記されているのだと思います。
イエスさまに従う→困難に出会う→自分たちの中に信仰がないことを教えられる→しかし神さまに御頼りする→神さまはしっかりと答えて下さり困難を解決してくださる→新しい神さまのお姿にお出会いし驚く・・・。これが信仰生活なのでしょう。
今日はどんな神さまの新しい力強さにお出会いさせていただけるでしょう。イエスさまの背中を見上げながら一日をはじめたいと思います。
待ち望みの季節を迎えています。