ただ、おことばを下さい。

静まりの時 2022年12月05日(月)
マタイ8・5~13

 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。
 イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。
 しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。
(マタイ8・5~13)

 カペナウムは、ガリラヤ湖北西岸の町で、イエスさまのガリラヤ伝道の拠点となった地です。ペテロの家もあったとか。
 百人隊長。ローマ軍団の中核を担うとても重要な立場とのこと。有事の際はもとより、平時においても兵の指揮統制をし、市民からも多大な敬意を受けていたそうです。ユダヤ人ではなく異邦人であったと推測されます。
 その百人隊長の一人が、病に苦しむしもべのためにイエスさまのところにやって来て、癒していただいたという記事です。

 この百人隊長は、病に苦しむしもべの癒しを願う人物です。そのために、ユダヤの教師に願うこともいとわない人物です。このようなしもべ思いの百人隊長の下にある、ということは、しもべたちに大きな安心をもたらしていたのではないでしょうか。この百人隊長の命令であれば、いのちも惜しまない、というしもべもたくさんいたのではないかと想像します。

 「私も権威の下にある者です」。百人隊長の権威は、ローマの権威でした。背後にあるローマの権威を、この百人隊長は誰よりも知っていました。もし百人隊長の立場を追われることがあったとすれば、その瞬間に自らにあった権威もなくなることを知っていました。権威ある立場が与えられた時に、それを役割だからと受け止めるのではなく、自らが何者かになったかのように誤解する権力者は多いと思います。しかしこの百人隊長は、自分に与えられている権威を真摯に受け止めています。
 権威というものを真摯に受け止めているこの百人隊長は、その権威をイエスさまの中に見出しています。それも地上の権威ではなく、病をもその手の中に支配されている神さまの権威をイエスさまの中に見出しています。その神さまの権威をお持ちのイエスさまが、ひとたびお言葉を発せられるならば、そのお言葉通りに世界は「なる」と信じていたのです。もし権威を信じていると言いつつ、その言葉の力を信じていない、ということならば、権威に信頼していないということでしょう。百人隊長は神さまの権威に信頼し、その権威から発せられる言葉の威力を信じていたのです。

 イエスさまは、この百人隊長に、信仰を発見されました。そしてその信仰は神の民であるはずのイスラエルの中にも見出し得ないほどの信仰だ、と驚かれました。そして「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」と言われました。そのとき、病に苦しむしもべは癒されました。
 自らをわきまえ知る謙遜と神さまの権威を大切にするところに健やかな信仰が生まれます。その信仰は信じる者に幸いをもたらします。

 しもべのことを少し想像しましょう。このしもべは、聖書の文面を見る限り、いわゆる信仰を持っていたわけではありません。自分が仕える百人隊長の信仰によって、癒しをいただいたのです。神さまは、病で苦しむ人の苦しみを自らのもののように苦しみ、その病のいやしを願う百人隊長の信仰によって、しもべを癒されました。ここに他者のために祈る人のその祈りに答える神さまのお姿が明らかにされているように思います。自分では信仰を持つことが出来ない。しかし自分の代わりに信仰をもってくれる愛する隣人がいてくれる。その人の信仰によって自らが恵みにあずかる、ということが記されているのです。自らをわきまえ知る謙遜と神さまの権威を大切にする百人隊長にお仕えすることが出来たこのしもべは幸いだったと思います。

 権威という言葉ですが、原文のギリシャ語では「エクスーシア」という言葉で、辞書を引くと、最初に訳語として書かれているのは「自由」という言葉です。他の訳語としては、権利、資格、能力、力、権力、権威、支配権、主権、などなと。つまり権威の下にあるということは、不自由の中に縛られているのではなく、自由の中に置かれている、解放されているという意味なのでしょう。
 もちろん圧政の下に弾圧されるような事態は、不自由の中に置かれていることなのだと思います。しかし神さまの権威の下においていただいている、ということは、本来自由なことであるはずだ、ということでしょう。
 自由という言葉は、魅力的な言葉ですが、神さまへの信仰のないところの自由、自らが中心となって追い求める自由は、簡単に不自由になってしまいます。夏休みの自由研究は、何をしていいか分からない者にとっては、かなり不自由な課題でした。逆に、ワークブックを10頁してきなさい、と言われると、あんがい自由なものです。実際に宿題をするかしないかはともかく・・・。
 真理はあなたがたを自由にする(ヨハネ8・32)、とイエスさまは言われましたが、真実であるイエスさまがともにいて下さることは、まことの自由を私たちにもたらします。

 昨日も幸いな主の日を過ごすことが出来ました。ともに賛美を歌い、祈りをし、み言葉に耳を傾け、礼拝を献げて、新しい一週間が始まりました。寒さが進みます。健やかに、今日も喜びと感謝をもって一日を過ごしましょう。インマヌエル。神さまはともにいて下さいます。