報いとして安息を与えること

静まりの時 2022年11月16日(水)
第二テサロニケ1・3~12

6 神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、
7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。
8 主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。
9 そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。
(第二テサロニケ1・6~9)

 神さまは正しいお方です。罪には罰を与えるお方です。善には善をもって報いてくださるお方です。それが神さまにとって正しいということです。
 ここで聖書は、「報いとして苦しみが与えられる者」を、罪を犯す者、としているのではなく、「あなたがたを苦しめる者」と語ります。また「報いとして安息を与えられる者」とは、善に生きたものというのではなく、「苦しめられているあなたがた」と語ります。
 テサロニケの教会に生きる兄弟姉妹は迫害の中にあったのだと思います。その彼らに向かって、あなたがたを苦しめている人たちは、審きの日には苦しみを受ける、逆に、苦しめられているあなたがたは、審きの日には、安息を受けるのだ、と語られているのです。
 つまり善に生きているか悪に生きてしまっているか、という区別ではなく、教会に生きる人びとと、それを迫害する人たち、という区別をしているのです。教会に生きている人であっても、善に生き切れていない人もいたかもしれません。逆に教会を迫害する人たちにも様々な事情があり、決して悪意だけで迫害をしていたわけではないでしょう。
 にもかかわらず、審きの分かれ道は、「あなたがた」か「あなたがた」でないか、で峻別されているのです。つまり教会に生きる者であるのか、それとも教会を苦しめる者であるのか、が分かれ道である、とパウロは語っていることになります。
 もちろん「主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます」というのですから、教会そのものが、神を証しし、主イエスさまの福音に従うことがその前提として必要不可欠のことです。教会が、神を証しせず、福音に生きていないのに、最終的には安息に入れていただけるのだ、と言って自分たちを迫害する者たちにますます敵対心を持つとすれば、間違った信仰に生きていることになるでしょう。そういう教会であっては、教会そのものが「報いとして苦しみを受ける」ということもあり得るのだと思います。
 ですから教会がしっかりと神さまを証しし、福音信仰に生き続けることが大切なこととなります。当たり前のことですが・・・。そのうえで迫害を受けるとすれば、最終的な審判の主にすべてをお委ねして、その迫害の中にあってもしっかりと希望を告白しつつ、信仰生活を歩むことが大切なのです。
 神さまを信じるということは、正しい審き主がおられることを信じるということです。この信仰は、どのような中にあっても希望に生きる道を信じる者に拓きます。また、今すぐに審きが行なわれなければいられないという焦りから信じる者を解放してくれるでしょう。

 神さまが罰を与えられるのは、「私たちの主イエスの福音に従わない人々」である、とパウロは語りました。聖書に従わない人、というのではなく、主イエスの福音に従わない人、というのです。新約聖書に記されている「聖書」は旧約聖書のことです。自分たちはこの「聖書」に従っているという人たちから、教会は迫害されました。それは教会が、当時の旧約聖書の解釈をもって単純に旧約聖書に従ったのではなく、主イエスさまの福音に従ったから、主イエスさまの福音によって旧約聖書を再解釈したから、迫害を受けることになったのです。ですからここでも「主イエスの福音」に従うかどうかが、審判の分かれ道であると語られています。
 福音に従う、それは主イエスさまの十字架と復活によってなされた贖いのみわざを信じる、ということです。主イエスさまの愛と赦しの中に自らが生かされていることを喜び感謝することです。