いつも学んでいるのに

静まりの時 2022年11月17日(木)
第二テモテ3・1~9

見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。
・・・
いつも学んでいるのに、いつになっても真理を知ることができません。
(第二テモテ3・5、7)

 「見かけは敬虔」しかし「敬虔の力を否定する者」とはいったいどのような信仰者なのでしょうか。行いにおいて敬虔なふるまいをするが、その生活を見れば、敬虔の力が及んでいない、敬虔の力を否定しているような生活となっている、ということでしょうか。
 敬虔と訳されているギリシャ語には、神や親に対して「孝順」である、という意味も書かれていました。孝順というのは、よく仕えてその意に逆らわないこと、とのこと。神さまを敬い神さまに素直に従うことを実践しているのですが、その神さまを敬うということがもたらす「力」が否定されている、ということでしょうか。
 神さまを第一にする、ということが、私たちにもたらす力。それは私たちが造り変えられていく、ということでしょう。敬虔に生きようとするならば、見せかけや振る舞いだけでなく、その生活そのものが変えられていく。その変化は、罪と滅びの中にしか生きることが出来なかった私たちが、愛と喜びの中に生きる者とされる、光の中に生きる者とされる、ということでしょう。

 「いつも学んでいる」しかし「いつになっても真理を知ることが出来ない」。それも見かけの敬虔さと、敬虔の力を否定する、ということと同じかもしれません。学ぶことによって知識は増えていくのです。しかしその生き方が変わっていない。真理とは謙遜のことである、ということをたびたび教えられますが、知識が増えても謙遜にならない。むしろ知識が増えることによって高慢さが増し加わっていく。そういうことが起こっていた、ということでしょう。

 敬虔に生きること。そして学ぶこと。それはとても大切なことだと思います。しかしそれらの向かう方向は、真理を知ること、すなわち謙遜に生きることなのだと思います。そのように自分自身が変えられていくような聖書の学び方をしなければならないと思わされました。

「現代社会は知識、学識が追い求められ、『思う』余裕も『問う』力もなくなったかのようである。『問い』としての学問はなくなってしまい、学識、学術ばかりがはびこっている。『学術会議』はあっても、『学問会議』はない。まして『学道』というような、人生の修行の道としての学というものは縁遠くなってしまった。
 ところが、聖書や聖典は学識を増すことや、学術研究を目的として書かれた本ではない。人生の道を問う『学問』、またさらに『学道』の書となるべきものである。聖書を学問し、学道すること自体が、キリストを生きる道となるような読み方でなくてはならない。」

(奥村一郎、『断想 足元を深く掘れ』、女子パウロ会、1990年、45頁、「学びて思わざるは」より)