静まりの時 2022年11月15日(火)
エゼキエル7・5~9
8 今、間もなく、わたしは憤りをあなたに注ぎ、
わたしの怒りをあなたに出し尽くす。
あなたの生き方のとおりにあなたをさばき、
あなたのすべての忌み嫌うべきわざに報いる。
9 わたしはあわれみをかけない。惜しまない。
忌み嫌うべきことが、あなたの中にあるうちに、
わたしはあなたの行いのとおりに報いる。
このとき、あなたがたは知る。
わたしがあなたがたを打つ主であることを。
(エゼキエル7・8~9)
「忌み嫌うべきこと」とは何か。私たちが審かれなければならない原因となる、私たちの内にある「忌み嫌うべきこと」すなわち偶像礼拝とは一体なんであるのか。天と地を造られ、奴隷となっていたエジプトでの生活から脱出させてくださり、約束の地に招き入れてくださったのが、神さまであるにもかかわらず、その神さま以外のものを神としてしまうイスラエルの罪。その忌み嫌うべき偶像礼拝の真相とはいったい何なのでしょう。あれほど鮮やかに神さまを体験したのにもかかわらず、どうして他の神々に心が向かうのでしょうか。そのイスラエルの偶像礼拝の罪の真相を知らなければ、私たちの内にある罪の真相も明らかにならないのだと思います。それが明らかにならないと、表面的な罪の理解に終わり、結局徹底した悔い改めを経験することにならないのだと思います。
聖書は創世記3章において、罪とはアダムとエバの禁断の木の実を食したことにはじまる、と語ります。木の実を盗るという行為そのものが罪なのではなく、神さまが採ってはならない、採って食するならば必ず死ぬ、と言われたにもかかわらず、採って食べてしまった、ということが罪だといいます。つまり神さまの語られた「言葉」に従わず、へびにそそのかされたとはいえ、自分の思い、自分の判断、それを支える自分の知恵を、最優先にしてしまった、ということが罪だったのです。自己中心と言ってもいいと思いますし、また人間中心と言ってもいいのだと思います。
その罪が最悪のかたちで花開き実を結んだのが、偶像礼拝、なのだと思います。偶像礼拝においての問題は、異教の神々を拝む、ということももちろん問題なのだと思いますが、それ以上にそこに明らかにされる、人間の願望が実現することを最優先にすること、人間の思いの通りにこの世界を支配しコントロールすることによって自らに幸せがやって来るとすること、が問題なのだと思います。
このように考えると、キリスト教信仰においてもこの「偶像礼拝」が起こってしまうことがあるのではないかと考えなければならないのだと思います。確かに聖書を学び、神さまを礼拝しているのです。使徒信条を唱え、主の祈りを祈り、正統的な信仰を語っているのです。しかしその実、その心の奥深くにあるのが、自己実現であるとか、自分の思い通りに自分の人生や自分を取り巻く世界をコントロールしようという思いであれば、そこには、偶像礼拝の罪がある、と考えなければならないのではないか、と思うのです。
偶像礼拝の罪。それは自己中心の罪、人間中心の罪である、と考えるならば、人間はみなこの罪の中にあるのではないでしょうか。この罪から逃れることは、人間である限り不可能なのではないか。罪を偶像礼拝の罪として考える時、人間は罪を犯す、というのではなく、人間であることそのものが罪である、ということも言えるのではないか、と思えてきます。
ですからこのようなあわれな人間に向かって神さまが「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43・4)と言われた言葉はまさに奇跡の言葉なのです。私もまんざらではないな~、と思うのではなく、私の現実を誰よりもご存じのお方が、そのように語って下さることのありがたさに出会うのです。このイザヤの言葉が語られるために、イエスさまの十字架と復活の贖いのみわざがあったことを知るのです。
十字架の主イエスさまを見上げ、復活の主とともに歩む私たちとしていただき、自己中心、人間中心から解放され、今日も神さまの愛のお心のうちに歩めることを感謝したいと思います。