静まりの時 2022年11月14日(月)
エゼキエル7・1~4
1 次のような主のことばが私にあった。
2 「人の子よ、あなたは言え。
『イスラエルの地に対して神である主はこう言われる。
終わりだ。終わりが来た。
この国の四隅にまで。
3 今、あなたに終わりが臨む。
わたしは怒りをあなたのうちに送り、
あなたの生き方にしたがってあなたをさばき、
あなたのすべての忌み嫌うべきわざに報いる。
4 わたしはあなたにあわれみをかけない。
わたしはあなたを惜しまない。
忌み嫌うべきことが、あなたの中にあるうちに、
わたしはあなたの行いをあなたの上に返す。
そのときあなたがたは、
わたしが主であることを知る。
(エゼキエル7・1~4)
「忌み嫌うべきこと」を行うイスラエルに向かって審きの言葉が語られます。神さまは「あなたの生き方にしたがってさばき」を行うといわれました。
神さまを信じて生きる、ということは、神さまの愛を信じ、その愛の神さまに自らをゆだねて生きるということですが、このような審きの神を信じるということでもあります。愛と赦しの神さまは、厳しい審きを行うお方でもあるのです。
旧約聖書に審きの神が描かれ、新約聖書には愛と赦しの神が描かれている、と理解するのは、正しくはありません。旧約聖書にも愛と赦しの神が描かれ、新約聖書にも厳しい審きの神の姿が描かれています。
教会の歴史の中では、旧約聖書を無くして、新約聖書のみを大切にしようという動きが、教会の中でいく度も起こりました。しかしその都度教会は、聖書が旧約聖書と新約聖書の66巻であることを明らかにしてきました。そうして旧約聖書が指し示し、新約聖書が語っている福音、そして福音そのものであるイエスさまを信じる信仰を明らかにしてきたのです。
審きの神と愛と赦しの神が別々にされてしまうところに聖書の語る信仰から外れてしまう道が生まれます。キリスト教信仰は、この審きの神と愛と赦しの神が一つ(唯一)であることを信じる信仰です。同じ一つの神が、審きの顔をもち、また愛と赦しの顔を持つ、というダブルスタンダードな神である、というのでもありません。審きと愛と赦しが一つである、と信じたのです。それが十字架です。十字架は、神さまの審きと愛と赦しが一つになったところです。「十字架のもとぞ いと安けき 神の義と愛の 会えるところ・・・」(新聖歌230)なのです。
とすると、今朝のところからも、ここに語られている神さまの厳しい審きを受けてくださったのが、イエスさまご自身であること、を教えられるのではないでしょうか。何一つ「忌み嫌うべきこと」を為されなかったお方が、十字架の上で呪いとなって下さったのです。そうして「終わり」を受け止めてくださいました。全てが完了した、と言って下さいました。
私たちは、本来ならばあわれみを受けることがなかったにもかかわらず、あわれみを受ける者としていただきました。神さまの義はひとたび発動されるならば、ここに審かれるイスラエル以上に、厳しい審きを受けなければならなかった私なのです。であるにもかかわらず、こうして神さまの愛の中に生かされる者としていただきました。今朝も生きている、ということそのものの中に神さまの愛と赦し、十字架の犠牲があるのです。
愛と赦しの神さまを信じるということは、義の神、審きの神であるということを信じることなくして成り立つことではありません。赦された喜びは、審きの厳しさと比例します。審きの厳しさを水増ししてしまうならば、愛と赦しの喜びも水増しされるのです。
私たちがこのような聖書の個所を読む時にも、「今朝の私に向かって語られているイエスさまの語りかけ」をこの中にあることを信じて、思い巡らす、ということは大切なことです。
聖書は決して私の事情や理解力を無視して、いわゆる権威主義的に語りません。理解できないということであれば、それを無視して、こうあるべき、という生き方を強要してきません。分からない、という私を、そのままで受け止めてくれます。分からないということであれば、そのままの私を、私も受け入れればよいのです。
しかし少しでも心に引っかかることがあるならば、そこで思い巡らします。今の私にとってイエスさまは何をお語りくださっているのだろうか、と。聖書は権威主義的ではありませんが、私にとって権威をもって語りかけてきます。聖書は、私たちに同伴し、私たちを神さまの愛に生きるようにと招いていてくれます。
ずいぶん時代を感じさせる道具で、すでに賞味期限をはるかに過ぎて色褪せた抹茶を点ててくれました。