わたしの民イスラエルを回復させる

静まりの時 2022年11月09日(水)
アモス9・11~15

わたしは、
わたしの民イスラエルを回復させる。
彼らは荒れた町々を建て直して住み、
ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、
果樹園を作って、その実を食べる。
わたしは、彼らを彼らの地に植える。
彼らは、わたしが与えたその土地から、
もう引き抜かれることはない。
──あなたの神、主は言われる。
(アモス9・14~15)

 テコアの牧者であったアモスが、神さまに預言者として召されました。このアモスによって、繁栄から滅びに向かうイスラエルの民に向かって神さまの言葉が語られます。

「わたしは、わたしの民イスラエルを回復させる」。

 共同訳2018では、「わが民イスラエルの捕らわれ人を私は帰らせる」。

 原文を見ると「捕らわれの身から向きを変える」というように訳される言葉かなと思いました。

 やがて捕囚の身となるイスラエル、しかし神さまが回復してくださる、そのような希望が語られています。その回復とは、捕らわれの身から向きを変えていただける、ということだ、ということでしょう。
 人間は神さまによって造られました。神さまを愛して、隣人とともに幸せに生きるように、喜びに生きるようにと造られたのです。しかし禁断の実を食したとき以来、幸福と喜びは、失われてしまいました。なぜ人間は禁断の実を食したのか。それは、神さまのお言葉を退け、自らの判断を優先させたこと、すなわち自らを神としたことによります。
 それ以降、幸福と喜びを求める人間は、自らが主となることによって、その幸福と喜びが手に入ると思い込み、飽くなき追求を続けています。そうしてさらに神さまから遠く離れていくのです。しかし神さまに造られた人間には、神さまのもとに帰る以外に幸福と喜びはありません。神さまから離れることによって、ますます幸福と喜びから遠ざかっていくのです。
 神さまはこのような人間の状況を深くあわれまれ、御子イエスさまをこの地に降してくださいました。御子は父なる神さまへの全き従順、すなわち神であるにもかかわらず、「従う」という道を選択されることによって、真実の人間としての道を歩んでくださいました。実に十字架にまでも従われたのです。父なる神さまはこの従順の御子を復活させ、十字架のみわざが神さまのみこころであることを明らかにされました。罪のもたらす死(肉体の死も、またあらゆる死も)の棘を取り去り、この御子にあって尽きることのないいのちに生きる道をひらいてくださいました。再びエデンの園に生きる道をひらいてくださったのです。

 イエスさまを信じて新しく生きるということは、このエデンの園に生きる、ということです。そのためには、神さまに「回復」していただかなければなりません。すなわち「捕らわれの身から向きを変え」ていただかなければなりません。自らが主となることで幸福がやって来ると思い込んでいる捕らわれから変えていただかなければなりません。罪びとである私たちには、自らを変えるはありません。ただイエスさまの愛の力によってのみそれは可能となります。
 エデンの園に生きるためには、この、自らが主となるところに幸福と喜びがある、とする生き方の方向性を、神さまによって変えていただかなければなりません。すなわち悔い改めに生きることが必要なのです。悔い改めるということは、神さまを主として生きるということです。そこにこそ、幸福と喜びがあります。

 このアモス書は、聖四文字ヤーウエとエロヒーム、の二文字で終わります。まことの神さまが必ず回復してくださるのです。

 昨日の新聞に、漫才師のかたが慢性虚血性心疾患で死去されたことが載っていました。急性虚血性心疾患の急性心筋梗塞を患った身としては、慢性と急性の違いに心が留まりました。一般的に、急性を患うことにより、心筋にダメージが生まれ、それが慢性化するというようなイメージを持っているのですが、この方もそのような道を歩まれたのでしょうか。自らの身と少し重ね合わせてしまいました。このかたの漫才を楽しみに見ていたことを思い帰しています。まだ74歳とあったように思います。大変残念です。
 昨年に倒れたのは、文字通り急性だったので急なことでした。私はというと結局入院してひたすら闘病すればよかったのですが、妻のほうはたいへんだったように思います。生活の急変、私へ心配、教会のこと、など一気に直面することになりました。日々牧師館と病院の往復、コロナで面会できない中、看護師さんを介してのやり取り、洗濯ものの交換、などなど。とうとう軽度だったのですが妻自身も狭心症を発症することになってしまいました。今もニトロを手もとに持つことになりました。
 妻はぎりぎり一杯で日々を過ごしていたのだと思います。私の退院後も、食事の管理など今までになかったことが増えていきます。もともと身体の強い人ではありませんが、もちまえの明るさと大らかさで乗り切ってくれたのだと思います。そんな中に日々過ごしていましたので、これ以上に負担が重なるようなことがあれば、もう限界だろう、ということだったのですが、現実は、更なる負担が重なることになってしまいました。罪の世にある限り戦いは無くならないのかもしれません。妻が倒れるということは、すなわち私が倒れることでもあることをよく知っていて下さる(笑)教会の皆さんは、一所懸命に私たちの更なる負担が少しでも和らぐようにと粉骨砕身、配慮していてくださいます。神さまはすばらしい方々を教会に与えていてくださった、と感謝しています。

 昨夜は皆既月食ということでしたが、私の住むところでは雲が出て来て少ししか見ることが出来ませんでした。あちらこちらにいる子どもたちからは、見えた見えた! と写真が送られてきました。夜19時のニュースのトップが戦争ではなく皆既月食のことでした。なんか幸せだなあ、と感謝しました。