その束は主の前で揺り動かす

静まりの時 2022年11月10日(木)
レビ23・9~14

主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。
 あなたがたがわたしが与えようとしている地に入り、収穫を刈り入れたなら、収穫の初穂の束を祭司のところに持って行きなさい。その束は主の前で揺り動かす。あなたがたが受け入れられるためである。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のささげ物として傷のない一歳の雄の子羊を献げる。
(レビ23・9~12)

 共同訳では、レビ記23章には「祝祭日」との表題がつけられています。今日のキリスト教会に当てはめるならば、主の日の礼拝ということでしょうか。礼拝の持ち方について記されています。9節からは約束の地での刈り入れの時の礼拝の持ち方です。
 刈り入れということですから、収穫祭のようなものでしょうか。今月11月は収穫感謝祭の月です。アメリカ大陸発祥のお祭りということですが、新大陸での収穫の喜びが、このイスラエルの約束の地に入っての収穫の喜びと重なっているようです。

 「その束は主の前で揺り動かす」。

 収穫物を手にして、主の前で、右に左にと揺り動かす、というのです。揺り動かすというと、いろいろと想像が走りますが、新聖書註解によると
「<主に向かって揺り動かす>。ラビの伝承によると、祭壇に向かって前後に、あちらこちらに揺り動かすのである。このように揺り動かすことは、ささげ物をまず神に帰し、それからそれが神から祭司に与えられることを表す」(『新聖書註解 旧約 1』、いのちのことば社、394頁)
とありました。
 新共同訳や共同訳2018では、この言葉を「差し出す」と訳しています。

 カトリック教会のミサでは、聖体となるホスチア(聖餅)を司祭さんは、少し高く掲げて、揺り動かされます。その姿を思うと、神さまの確かに献げる、という感じと、その献げられたものを、再び受け取る、いただく、という感じがします。プロテスタントでも、パンを会衆に見えるように掲げて、パンを割(さ)く、杯を手に取る、ということをするのですが・・・。あんまりちゃんとできていません(笑)。説教台と聖餐卓の位置を少し考え直してみましたので、次回行うときにはできるかもしれません。

 プロテスタントの場合、聖餐式の分餐の方法は、大きく三つのタイプがあります。一つは会衆が聖餐卓を囲んで順次陪餐する方法、もう一つは、配餐者の前に進み出て陪餐する方法、そして私たちの教会が行なっている会衆席にパンと杯が配餐される方法です。いずれにも意味があると思います。広島の教会をお訪ねしたときには、一つ目の方法がとられていました。感染症対策で、少人数での聖餐式です、と言っておられました。5人ぐらいが聖餐卓を囲んで、聖餐式を行うということでした。

 さて話しがそれましたが、献げるということにおいて示されていることは、献げものは神さまから与えられたものである、ということと、その神さまからのものをいただいて私たちは生かされているという感謝と喜びです。それがこの揺り動かす、差し出す、ということに込められているのだろう、と思いました。

 私たちの教会では、席上献金は第一の日曜日のみ行うことになっています。また聖餐式も第一の日曜日に行うことになっています。私はこの二つのことを行う順序は大切と考えていて、席上献金のあとに聖餐式を行うことにしていますが、むしろ聖餐式のプログラムの最初に献金があるという教会も多いのではないでしょうか。
 ちなみに献金の時が、説教の後にある教会は多いと思いますが、これは献金が説教に対する応答、あるいは反応や評価、とも誤解されることになり、ある教会では説教の前に献金の時を持っておられました。これも意味のある事だと思いました。そうはしませんが(笑)。

 献げるというと、モノやお金、ということになりますが、本来は自分自身を神さまにささげるということですね。その心を献金に託して献げるということをするのが本来でしょう。礼拝によって恵まれるとか祝福されるといったことも大切かもしれませんが、自らを神さまに献げる、ということを大切に考えなければならない、とあらためて思いました。