見よ。わたしはあなたとともにいて

静まりの時 2022年11月01日(火)
創世記28・10~22

 ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。
 彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
 そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。
「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
(創世記28・10~16)

「そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。」(13)

 以前の訳では「そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。」(新改訳聖書第3版)
 父イサクをだまし卑怯な方法で長子の権利を自分のものとしたヤコブは、兄エサウの怒りを逃れるように旅に立ちます。日は暮れました。ヤコブは石を枕に眠りにつきました。ヤコブは夢を見ます。天と地をつなぐはしごに、神の使いが上り下りしている夢を見ました。「ジェイコブズ・ラダー」というと、雲間から地位に注ぐ太陽光線を思い浮かべます。
 その夢の中で神さまはヤコブに親しく語って下さいました。

「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(15)

 旧約聖書、新約聖書を貫いて語られている福音は、この「神さまがともにいて下さる」ということです。このときヤコブは故郷を逃げるように出て来た旅人です。逃亡者といってもよいかもしれません。ヤコブの周りにはだれもいません。その旅を共にする者がいないのです。一人で迎えた夜。しかし神さまはともにいて下さいました。ヤコブの傍らにともにいて下さり、語りかけてくださいました。「私はあなたとともにいる」と。そしてヤコブがどこに行こうが、神さまはそのヤコブを守り通してくださる、そして再び「この地」、アブラハム以来の約束の地に連れ帰る、約束の成就まで、決してヤコブを捨てない、と語って下さったのです。

 眠りから覚めたヤコブは言います。

「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」

 独りぼっちで、石を枕に眠りについたが、神さまはその時もともにいて下さった、そのことを私は知らなかった、私が知らない時から、神さまはともにいて下さった、今そのことを発見しました。神さまがともにいて下さる、ということは、このように、自分が知るか知らないかに関わらず、神さまがともにいて下さる、ということです。私が認識している時は、神さまはともにいて下さるけれども、私が認識していないときは、どこかに行っておられる、ということではない、ということです。信仰とは、自分の認識力を越えて、神さまがともにいて下さるという事実、そして真実(信実)に出会う、ということです。

「つまり神認識とは、私が主体として何かを、この場合にはまさに神を、客体として認識するというように単純に考えることのできないものである。何よりもまず神認識とは、まったく反対に、神が認識するということである。キリスト者は神を認識することにおいて、自分の方が神によって認識されているのだという事実によって生きている。そしてこの神の側からの認識は、ただ単なる(認識された!)人間が理解する以上のことであり、その人間の解放と保持を包含しているものである。認識は単なる知的な出来事以上のことである。ヘブライ語でこのドイツ語の『認識』に当たるのは『ヤダー(知る)』という言葉であるが、それは必ず常に親密な関係を表す表現である。たとえば、男と女が互いを知るということは、存在の全体をもって関わることの表現である。それがまた結局のところ、神の認識に関する問答書の解釈でもある。神の認識は、神が人間を『知り』、人間がこの神によって知られることを信じ告白することに懸かっている。神の認識は神が認識することに拠っている。」

(G.プラスガー、『ハイデルベルク信仰問答との対話―信仰の宝を掘り起こす』、教文館、2019年9月30日発行、43頁f。)

 このプラスガーの文章は、

「神は問答書にとって、最終的にはただこの方に対する信仰告白においてだけ正しく理解される一つの名前である。すなわち、イエスこそキリストなのである」

と締め括られます。

「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」

 私が知ろうが知るまいが、神さまがともにいて下さる。たとえ私の意識が混濁し、認知機能が衰えたとしても、神さまがともにいて下さるとの事実は変わることがありません。そのように語り続けてくださる神さまのご真実は変わることがありません。そのことを語るために御子イエスさまはこの地に来てくださいました。そして十字架と復活のみわざを成し遂げてくださったのです。

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