静まりの時 2022年10月31日(月)
ローマ12・1~8
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
(ローマ12・1)
「あなたがたのからだを・・・献げなさい」。からだ、全存在を献げること。精神的なものを献げるというだけではなく、からだ全体をもって献げるのです。
「神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」。献げるときに、献げかたがある、ということです。
「神に喜ばれる」物として献げること。神さまに喜ばれないもの、としてではなく、神さまが喜んでいてくださるものとして献げるのです。信仰によって義としていただいた私たちですから、神さまは私たち一人ひとりを喜んでいてくださいます。そのような私たちを神さまにささげるのです。神さまが喜んでいてくださることを確信して、私たちもその喜びにあずかりながら献げるのです。「私」を見れば、決して喜ばれるようなものではないのは確かです。しかしその「私」を、神さまは、あなたは高価で尊いと言って下さり、いのちを捨てて救い出してくださいました。そのような「私」を献げるのです。
「聖なる生きたささげ」物として献げること。聖なる、という意味は、神さまのものとされた、という意味です。神さまのものとされた「ささげ物」として。すでに神さまに属する者とされた、そのような「私」として献げなさい、というのです。
「それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」。この「ふさわしい」という言葉は、岩隈直の新約ギリシャ語辞典によると「理性に属する、合理的な、ロゴスに一致した、霊的な」とありました。
信仰によって義とされた私たちが、このように礼拝を献げることは、とっても理にかなっている、ふさわしいことである、ということです。「献げる」ということは、私の手からはなすということです。すでに神さまのものとされた私なのだから、それをいつまでも自分のものとして握りしめていては「ふさわしく」ないでしょう。
人間は神さまを愛するために神さまによって造られました。神さまを愛するということは、何よりも礼拝を献げる、ということでしょう。神さまを礼拝する者となって、人間は人間になるのです。この「ふさわしい」は以前は「霊的な」と訳されていました。人間は霊的な存在として造られたのですが、それは神さまを礼拝することによって、健やかな人間、本当の人間になる、ということなのです。
昨日も礼拝をともに献げることが出来感謝でした。最後に紹介した晴佐久神父さんの詩ですが、最後の部分を紹介したかったのですが、ちょうどその部分の原稿が下の方になっていて見つからずできませんでした(笑)。ブログにアップしておきましたので、ご覧くだされば感謝です。
今日も幸いな一日でありますように。