この人がしたことも、この人の記念として語られます

静まりの時 2022年10月29日(土)
マタイ26・6~13

 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。
「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
 イエスはこれを知って彼らに言われた。
「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
(マタイ26・6~13)

 この記事がヨハネの福音書12章に記されている出来事と同じものであるとすれば、この「ある女」は、マリアという名であり、マルタ、ラザロの兄弟であることが推測されます。であるとすれば、ここでマリアと記さずに「ある女」とだけ記されていることに何か意味があるかもしれません。マルコの並行記事はほぼマタイと同じではないかと思います。ルカ7章37節以降に記されている「罪深い女」とも重なるような出来事ですが、微妙に違うようです。

 もうすぐ逮捕され十字架に架けられるという時、イエスさまは、弟子たちとともに「ツァラアトに冒された人シモン」の家で食事をされました。ツァラアトとは、昔の訳では「らい病」と訳された言葉ですが、原文の意味としては「天罰」を現す言葉なので、特定の病名をつけると、その病気が「天罰」と理解されてしまうことから、特定の病名に訳すことをしないことになったようです。共同訳2018では「規定の病」と訳されるようになりました。
 まずそのような病の中にあるシモンの家で、イエスさまたちが食事をなさったということに、驚くのではないでしょうか。

 そこに高価な香油を持った一人の女性がやって来て、イエスさまの頭に高価な香油を注ぎました。それを見た弟子たちは憤慨します。眉をひそめたり、小さな声でささやいたのではありません。憤慨した、激怒、激昂したのです。「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに」。まさに「正論」です。正論は、人を容易に怒りに駆り立てます。正論によって武装した怒りは、制御が聞きません。
 しかしこのように主張する弟子たちに、イエスさまは「わたしに良いことをしてくれたのだ」と優しく語られました。

「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」

 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるではないか。もし貧しい人たちに施しをしたいと思うならば、いつでもできるであろう。そうすればよい、と言われたのでしょう。
 もし自分たちが高価な香油を所有していたならば「いつも一緒にいる」貧しい人たちに彼らは施しをしたのでしょうか。高価な香油が、自分たちの所有物ではなくこの女性のものであるから、そのような正論を語っているだけではないでしょうか。
 私たちも、「他人の」財産についての「良い使い道」を考えてあげることは得意なのではないでしょうか。政治家や高額所得者の財が報道されるとき、これを貧しい人たちに、困っている人たちに分配すれば、どんなに良いことか、というのではないでしょうか。しかしそれが自分のものであるならば、果たしてその「良い使い道」に使うのだろうか・・・。

「この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

 香油を注いだ理由について、この女性は何も語りません。イエスさまのほうが理由を語られました。イエスさまの埋葬の備えをしたのだと。
 この女性はイエスさまの十字架を知っていたのでしょうか。埋葬されることを知っていたのでしょうか。

 彼女は知らなかったのだと思います。自分の献げものがどのように使われるかなど、頓着していなかったのだと思います。献げる、ということはそういうことだと思います。税金がどのような使われ方をするのかは、私たちは知らなければならないでしょう。それは自分たちの税だからです。しかし献金は神さまに捧げるものであり、ささげられた献金は神さまのものなのですから、「ひも付き」ならば、それは献げているのではないですね。もちろん教会会計の報告は大切ですし、みなでそれを検証、検討することは大切なことです。しかし教会の話し合いで決定されたことに不服だと言って、その献金を返してくれ、とはだれも言わないでしょう。

 彼女は、自分のささげた香油がどのような使われ方をされるのか頓着しないで、ただイエスさまのために献げたい、とのひとすじの心で献げたのだと思います。自分にはささげられるものが何かあるだろうか。そうだ、結婚式のために貯めに貯めた香油がある、これをささげよう、イエスさまに捧げよう。ひたすらその思いだけで献げたのだと思います。
 ところがそれをイエスさまは、わたしの埋葬の準備をしてくれたのだ、と言って下さったのです。彼女にとっては、思いがけない使われ方が神さまの口から語られたのです。その時の彼女の驚きを想像します。
 さらには「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます」と言われました。彼女の人生の終わりを越えて、彼女の行為が語り続けられる、と言われました。自分がどれだけ「得たか」ということは、世界の記憶に残るものではないでしょう。しかし神さまになされたことは、永遠に記念となるのです。