静まりの時 2022年10月24日(月)
ローマ6・12~14
12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。
13 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
14 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。(ローマ6・12~14)
主イエスさまを信じて洗礼を受けて以来、私たちは罪の支配の中にはいません。罪に対しては死んだ者です。そして神に対して生きる者としていただいきました。ですからもう私たちの死ぬべき「からだ」を罪に支配させてはなりません。罪に支配される、とは、自己中心になる、自分が主人になる、ということでしょう。自己中心から神さま中心としていただきました。自分が主人になることから、解放され自由にされました。それが神さまが用意してくださった洗礼を受けた者の人生です。
罪が私たちを支配することはもはやないのです。律法の下にではなく、恵みの下に移されたからです。すべては恵みによって生きるところへと移されたのですから、罪が支配することはないのです。
罪が支配することがないところに移動されられたにもかかわらず、罪の支配の中に生きようとすることは不自由なことでしょう。イエスさまを主として心の王座にお迎えしたのにもかかわらず、そのイエスさまをよそにして、自分が主人としてふるまおうとすることは、滑稽なことでもあるでしょう。まるで自分の身丈にあわない服を着せられたかのような、サイズの合わない靴を履いて登山をするような、そんなことでしょう。運転席から助手席に移動したのに、ハンドルを取ろうとするようなことでしょう。不自由であるだけではなく、苦しいことでもあり、危険なことでもあります。
ですから私たちは、自らのすべてを、不義の道具として罪に献げてはいけません。自らを神さまにお献げして生きるのです。手足を義の道具として神さまに献げるのです。神さまに献げる生き方こそ、本当の自由に生きる道であり、また本当の自分に生きる、自分らしく生きることなのです。
これは洗礼を受けたからといって、私たちが何の努力もなく自動的に恵みを味わい、聖く生きることが出来るということではありません。聖書を読む、という自分の行為がなければ、神さまのお心を知るということが実現しないでしょう。礼拝を献げるという自分の行為がなければ、神さまへの愛に生きる、ということは実現しないでしょう。恵みに移された者として生きるためには、やはり自分の意志を持った行動が必要なのです。
しかし聖書を読むという、いわゆる知的な行為が成り立つには、それなりの能力が必要となります。礼拝を献げる、という行為も、さまざまな条件が備えられていることが前提とされます。そのような前提は、自分の努力によってのみ備えられたのかというと、そうではありません。両親がいたので自分がこの世に生まれたということも含めて、自分ではない「他者」によるさまざまな備えがあったからでしょう。それらすべての背景に神さまご自身のあたたかい御配慮があったと考えることが、健やかな信仰生活でしょう。
神さまの一方的な愛の御配慮のなかに、自分自身の信仰生活が成り立っていると謙虚に受け止め感謝することは、何よりも恵みに生きる者の生き方なのだと思います。そうして喜びをもって、自らのすべてを神さまにお献げする、自己中心に生きようとしてしまう自分自身を治める、という自由に生きることが出来るのです。
自己中心ではなく、救われた者として神さまを中心に生きる、ということは、何よりも聖書のお言葉に従って生きるということだと思います。しかしこの聖書の言葉に従って生きるということは、ちょっと曲者である、と思います。
たとえば、キリスト者を迫害したローマが、キリスト者から過度な税を取り立てる口実に「カエサルのものはカエサルに」(マタイ22・21)という聖書の言葉が引用されたとか。ヒットラーによるユダヤ人迫害の背景に、ルターをはじめ聖書の記述からのユダヤ人への否定的な感情があった、とか。聖書は他宗教もさまざまな形で利用しますし、やはり聖書は、その文言そのものというよりも、文脈の中で読んでいかないと間違ってしまう、ということでしょう。聖書には正しい読み方というものがあるということでしょう。正しい読み方とは、聖書は私に語られた神さまの愛の言葉、として読んでいくということです。
聖書には、神さまの愛があますところなく記されています。自分自身を空っぽにして、神さまがひたすら私を愛していてくださることを聖書の言葉の中に発見していきましょう。
もう一つは「私」に語られている、ということを大切に受けとめましょう。その日その時、神さまは私を愛していてくださる、昨日も明日も神さまの愛は変わらないのですが、しかし今日このとき神さまが私を愛していてくださる、ということを受けとる、そのために聖書の言葉に出会う、ということです。こうして自分自身と神さまとの豊かな関係が育まれていきます。今日神さまは、私にどのように語って下さるだろうか、と心を開いて、心にスペースを作って聞こうとするとき、神さまは親しく私に語りかけてくださいます。
ただ私たちは罪びとなので間違った聖書の読み方をしてしまいがちです。間違った聖書の読み方として代表的なものとしては、誰かをさばくための言葉として読もうとする、ということでしょう。この御言葉はあの人のためにぴったりだ、あの人の言動にはがまんならないものがある、一つこの聖句をもって教えてやろう、指導してやろう、そんな気持ちで聖書を読んだり、あるいは礼拝での説教を聞くとすれば、どうでしょう。神さまが私に語っておられる愛の言葉を用いて誰かをさばくということをしているのですから、神さまのかなしみは想像に余りあるように思います。牧師も説教をしながら、この聖句は今のあの人に語ってやらなければならない、教えてやらなければならない、この御言葉をもってコントロールしよう、という心をもって説教を語り出したらどうでしょう。もう説教ではありませんね。牧師も自分自身への神さまの愛の言葉として、一週間を費やして説教の準備をしなければなりません。
もちろん誰かをさばくために聖句を用いるなどいうことは私たちはしないでしょう。むしろ誰かを励まそうとしたり、あるいは迷いの中にある方へのよい使信やはなむけとして聖句を送ろうとすることはするのではないでしょうか。私も絵葉書に聖句を書いて送ることがあります。しかし貧しい牧会生活の中で教えられたことは、相手にその聖句がどのように響くのかは自分には分からないということでした。請われたならばやぶさかではありませんが、励まそうと思ってもかえってがっかりさせることがある、良い使信をと思っても余計に行き詰まらせることがある、ということを想像するようにようになりました。よほど慎重にならないといけない、ということです。つまり聖書はその文脈を大切にして読まなければならないということと共に、語られる状況、その文脈も大切に学ばないと間違って聖書を読んでしまう、ということでしょう。、
ある方が、末期のがんで入院中の友人に励ましのはがきを送ろうとしたが、何を書いていいのかわからなかったので、そばにあった果物のスケッチを描いて送った、という話を聞いたことがあります。あとでそれを受け取ったかたから、気のきいた慰めの言葉なんかよりもよほど慰めをいただいた、とか・・・。はがきを送ったその方の想像力の豊かさに教えられたことがありました。
私には何が慰めになるのかわからない、という謙虚さは大切です。アビラのテレジアは、真理とは謙遜のことです、といいました。どんなにいわゆる正しいことや真理を語ったとしても、そこに謙遜がないならば、それは正しいことでも真理でもないのです。ましてや教えてやろう、指導してやろうなどということでは謙遜に伝えているとはいえませんね。真理でないことは、人を生かすどころか滅ぼしてしまうことでしょう。
たとえば、聖書には「互いに愛し合いなさい」(第一ヨハネ4・11,12)と書いています。ですから愛さなければならないところで愛を見失っているときに、神さまから「愛し合いなさい」と語られていると受け取ることは大切なことです。まただからこそ愛のない私を赦してください、と祈ることも大切なことでしょう。
しかしもしこれを、学校でいじめられている子どもがいて、もう教室に入れなくなってしまい、登校もできなくなった状態の中にあるその子どもに、「聖書には、互いに愛し合いなさいと書かれています。神さまは愛し合いなさいと言っておられるでしょう。頑張って登校してあのいじめっ子を愛してあげなさい、神さまはそう願っておられますよ」と、家庭訪問した担任の先生が語ったとすればどうでしょう。けなげなその子どもは、そうか聖書にはそう書かれているのだ、神さまはそのように語っておられるのだ、と思い込んで頑張って登校しました。一方いじめっ子の方は、ああ、いじめても何をしても登校してくるのだ、自分のやっていることは大したことはない、これからもいじめの手を休めることは必要がない、自分は正しいんだ、ということになりました。結果ますますいじめはエスカレートし、その子どもはとうとう登校どころか生きる道を失ってしまいました。ということであれば、そこでの聖書の読み方は正しかったと言えるのか、といえば大いに疑問を持つでしょう。少なくとも、神さまが心を傷めておられることは想像できるのではないでしょうか。ここで担任の先生がすべきことは、いじめられた子どもへのケアーであって、登校させるように指導することではないでしょう。指導しなければならないのは、そのいじめっ子に対してであって、そこでいかに自分が重大な過ちを犯しているかを分からせるということでしょう。
今はそうでもないのかもしれませんが、海外ではいじめっ子の方への指導が主流であった時代に、日本ではいじめられた側への指導が主流であった、とあるカウンセラーから聞いたことがありました。いじめられた側への対応、すなわち引っ越しとかをさせるということでしょう。それに対して海外ではいじめた側を引っ越しさせるとか・・・。文化の違いなのか、罪ということに対する認識の甘さや、罪よりも、事なかれ主義の文化からなのか、どうなのでしょう。
ちょっと横道に反れましたが、いずれにせよ、聖書のお言葉を、何かの主張を強化し満足させるための道具としてではなく、神さまから「私への愛のラブレター」として読んでいきたいものです。それが罪の支配から解放され、神さまの恵みの中に生きる者とすでにしていただいた者の信仰生活を豊かに形づくっていきます。
今朝の聖書の個所の竹森満佐一の説教から、その締めくくりの言葉を引用しておきましょう。
「奴隷が町の中でも、家の中でも、どこでも見かけられる時代でありました。広場に行くと、毎日のように、奴隷を売買しておりました。一人の奴隷が売買されると、主人が変わって、その途端に、奴隷の生活は全く一変してしまうのでありました。新しい主人は、お前はわたしが買ったのだから、わたしのためにだけ生きるのだ、と申します。それをいわれないでも、奴隷にはよく分かっておりました。
パウロは、キリストの恵みを思うたびに、あの奴隷市場の情景が、目に浮かぶのであります。そして、自分は全くよいご主人に買われたと思うのです。自分の心も体も、もう自分のものではない、今までの習慣はまだ残っているかも知れないが、ただ新しいご主人のために生きようと、喜んで決心するのです。『あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ、それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい』(第一コリント6・20)は、その実感から生まれたかも知れません。」(竹森満佐一、『ローマ書講解説教 2』、新教出版社、1965年、169頁)