これらの骨に預言せよ。「干からびた骨よ、主のことばを聞け。・・・」

静まりの時 2022年10月13日(木)
エゼキエル37・1~10

 主の御手が私の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。
 主は私に言われた。
「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」私は答えた。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」
 主は私に言われた。
「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。』」
 私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
 そのとき、主は言われた。
「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」
 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。
(エゼキエル37・1~10、新改訳2017)

 ドライボーンズのコーラスが思い浮かぶ方も多いでしょう。想像すると少しホラーな感じもするところです。
 神さまは干からびた骨の幻を預言者エゼキエルにお見せになり、その枯れた骨に預言をせよ、み言葉を語れ、と言われました。エゼキエルはその神さまのおことばに従いみことばを語りました。すると、ガラガラと音がして、骨と骨が互いにつながり、筋がつき、肉が生じ、それらを皮膚がおおい人間となりました。
 しかし依然その中には「息」がありませんでした。神さまはエゼキエルに、息に預言せよと命じられました。エゼキエルがその通りにすると、彼らの中に息が入り、彼らは生き返り、自らの足で立ち上がりました。非常に大きな集団であった、といいます。

 神さまは、いのちを失った干からびた骨を、再び活き活きとした人間に生き返らせることのできるお方です。そのために預言者をお用いになりました。「神、主よあなたがよくご存じです」と自らを頼みとせず、ひたすら神さまのお心にゆだね、語れと言われれば、その神さまのみ言葉に素直に従って語る預言者によって、人びとは再び生きる者となりました。教会が語る言葉は、このように人びとを生きる者とするのです。干からびた骨のように、いのちのかけらもない者を、み言葉によって生き返らせ、活き活きと生きる者とする。それが教会の語る言葉なのです。

神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。
(創世記2・7、新改訳2017)

 かつて神さまは、人を塵から創造されました。その時、人は、神さまの「息」を吹き入れられ「生きる者」となりました。このいのちは神さまとの豊かな交わりに中にあってこそ生きるいのちです。神さまとの関係を断絶された人は、このいのちを失いました。しかし神さまは神さまの関係が断たれ、いのちを失った人に、再びいのちを与えようとしてくださいます。

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。
「平安があなたがたにあるように。」
 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
 イエスは再び彼らに言われた。
「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。

「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
(ヨハネ20・19~23)

 主は、干からびた骨のような弟子たちを召し、ご自身のみ言葉を語る者として遣わされます。召された弟子たちは、主から「息」を吹きかけていただいて、神さまのみ言葉の宣教のために遣わされます。主が彼らに託された言葉は

「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 弟子たちは、罪の赦しの鍵を頂きました。それは自分勝手に、誰かを赦したりさばいたりする権力をいただいたのではありません。誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦される、しかし赦さずに残すならば、そのまま残るから、しっかりと赦しの言葉を語りなさい、ということでしょう。
 神さまから息を吹きかけていただき、再び生きる者となった私たちは、ひたすら赦しの言葉を語るのです。

 赦しの言葉を語る共同体として立てられた教会は、主の平安のうちに前進します。神さまから託された赦しの言葉を語る教会は、平安と平和に満ちたところであり続けます。

 さて、以前に寛容と不寛容について考えたことがありました。寛容であり続けるためには、不寛容を内包することになる、というようなことだったと思います。不寛容な人がいるならば、寛容な集団は成り立たないので、その不寛容に対して不寛容にならなければならない、そうしなければ寛容は成り立たない、というようなことです。
 教会が赦しの言葉を語る共同体であり続けるためには、何もかもを許容してしまったら、本当の「赦し」を語ることができなくなる、愛と平安に満ちた場所、安心して皆が集える場所になれない、ということでしょう。なかなか難しいことなのですが、そこで教会にはさまざまなルールが生まれました。今度の成長懇談会で話し合ってみたいと思って先日の運営役員会でも提案させていただいたのですが、受洗時や転入会時に誓約している誓約の五番目「純潔と一致と平和のためにつとめます」の中身はいったいなんでしょうか。具体的な言葉はなくても、この言葉だけで十分であるという良心的な人もいます。多くの人はそうでしょう。私もそうでした。しかし、中には、具体的な文言がないのをいいことに、その行為が教会の純潔と一致と平和を乱すことになるにもかかわらず平気で好き勝手にする人も出てきます。注意がなされると、どこにそんな文言がありますか、と反論しかえって詰問してくるような方も出てくるのです。あまり細かなルールを作ることは本意ではないのですが、皆で考えてみたいと思いました。
 私たちは、干からびた骨に向かって、いのちの言葉を語るために生かされています。平安と愛を語るように召されています。エゼキエルにならって精いっぱい語り伝えたいと思います。