静まりの時 2022年10月12日(水)
エゼキエル33・7~11
「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪しき者に『悪しき者よ、あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もし、あなたがその悪しき者に、その道から離れるように警告しないなら、その悪しき者は自分の咎のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。あなたが、悪しき者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。
人の子よ、あなたはイスラエルの家に言え。『あなたがたは「私たちの背きと罪は私たちの上にのしかかり、そのため私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう」と言っている。』
彼らにこう言え。『わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」
(エゼキエル33・7~11、新改訳2017)
「人の子」とはこの場合、預言者エゼキエルのことです。神さまはエゼキエルに、あなたをイスラエルの家の見張りとした、といわれました。見張り人の仕事は、すでに1~6節に語られました。その見張り人の仕事を、エゼキエルよ、おまえに託す、と言われたのです。
見張り人の仕事は、警告を与えることです。警告したけれども、悔改めないならば、その罪の責任は罪を犯しているその者自身に問う、しかしもし罪を犯している者に対して警告を与えないならば、その罪の責任はエゼキエル自身に問う、と神さまは言われました。罪を犯している者に対して、警告しないならば、警告しなかった者に責任がある、というのです。見て見ぬふりをするならば、責任が問われるのです。
教会は、この見張り人の仕事を神さまから託されました。世界に向かって警告を語ります。礼拝では、この神さまの警告を聞き、学びます。
警告の目的は、滅ぼすため、ではありません。救うためです。警告を聞いて、悔い改めるならば、その罪を犯していた者は、滅びではなくいのちに生きる者となるのです。神さまはそのことを喜んでくださいます。
ですから警告する者は、さばきの心をもって警告するのではありません。ひたすら悔い改めに導かれること、救われることを祈りながら愛をもって警告します。放蕩息子を待ちわびる父の心をもって警告します。十字架に架かりいのちを注ぐほどの愛をもって警告してくださったイエスさまの愛を、私たちもいただいて警告しなければなりません。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3・16,17)
ところが、人間は警告する時に、さばきの心、相手を断罪する心をもって警告することが実に多いのです。誰かを断罪する、ということ自体が、快感なのだと思います。自分が正義の味方になったような気持になるからでしょう。テレビで放映されるワイドショーでは、誰かが失敗した、問題を起こしたということが取り上げられ、それを司会者やコメンテーターといった人が批評するのですが、そこには自分こそ正義である、ということが前提とされているでしょう。それを喜んで視聴している私たちも、誰かを断罪したいという気持ちが満足させられる快感を得ているのではないでしょうか。
もしかすると、あの断罪されている人は明日の私かもしれない、という視点。あの罪に問われている人は、明日の私の子どもかもしれない、という視点。それを失ってはいけないのだと思います。
20世紀初旬に起こった「幸徳秋水事件」で死刑判決を受け執行されたなかにはキリスト者がいましたが、大石誠之助だったでしょうか、その葬儀を植村正久牧師は引き受けたとか・・・。この大石という人物は、結局2018年に、出身の新宮市から「人権思想や平和思想の基礎を築いた」人物として、名誉市民に認定されています。何が正義かどうかは、時代の限界をもつ私たち人間には完全には分からないということですね。さばきは主のものです。
さて私たちはこの警告を聞き、悔い改めた者でしょうか。いまもさまざまに警告が語られるのですが、その警告を聞き、自らを省みて、素直に悔い改めに導かれる者でしょうか。もし悔い改めに導かれることが難しいとすれば、その原因はどこにあるのでしょうか。
今朝の聖句は11節までですが、12節以降を少し読んでみたいと思います。
「人の子よ、あなたは自分の民の者たちにこう言え。『正しい人の正しさも、その人が背いたときには、それが彼を救うことはない。悪しき者も、その者がその悪から立ち返るときには、その悪につまずき倒れることはない。正しい人でも、罪ある者となるとき、自分の正しさによって生きることはできない。
わたしが正しい人に「あなたは必ず生きる」と言っても、もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正を行うなら、彼の正しい行いは何一つ覚えられず、自分の行った不正によって死ななければならない。」
(33・12~13)
悔い改めに導かれることを難しくしている原因は、「自分の正しさに拠り頼む」生き方にあります。
私たちは、大なり小なり自分の正しさに拠り頼んで生きています。自分の間違いを指摘された、警告されたとき、それを素直に聞くことができる人は、なかなかいないでしょう。とっさにそれを否定したり、言い訳をしたり、かえってそのように指摘した相手の悪口を言おうとしたり、と・・・。それらは、結局のところ自分の正しさに拠り頼んでいることでしょう。
悔い改めるということは、自分の正しさに拠り頼むことを、一切やめることです。警告されたならば、あなたのおっしゃるとおり、全くその通りなのですよ、ごめんなさいね、ゆるしてくださいね、しかしそんな私をイエスさまは愛して下さっています、ハレルヤ、と言えばいいのです。自分の正しさにしがみつく生き方から解き放たれて、ひたすらイエスさまの愛のお言葉の正しさに身を委ねればよいのです。キリスト教信仰に生きるということは、そのような悔い改めに日々生きる者としていただいた、ということなのです。