静まりの時 2022年10月11日(火)
エゼキエル3・1~11
「その方は私に言われた。『人の子よ。わたしがあなたに告げるすべてのことばをあなたの心に納め、あなたの耳で聞け。さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行き、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、「神である主はこう言われる」と彼らに言え。』」
(エゼキエル3・10~11、新改訳2017)
協会訳系の聖書では、エゼキエル書2章1節から3章15節に「預言者の召命と任務」との題がつけられています。その中の3章1節から11節までが今朝の聖句となります。
「その方は私に言われた。
『人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に告げよ。』
私が口を開けると、その方は私にその巻物を食べさせ、そして言われた。
『人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、それで腹を満たせ。』
私がそれを食べると、それは口の中で蜜のように甘かった。
その方はまた、私に言われた。
『人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばをもって彼らに語れ。』」
(1~4)
預言者は、神さまからお言葉が与えられて、そのお言葉を民に向かって語るのが使命です。預言者自身が、体系的な学びをし、知識を得て、それを語る、というのではないのです。いわゆる自転車操業なのです。
ですから神さまの言葉を語るためには、まず自分自身が神さまの言葉を聞かなければなりません。預言者エゼキエルは、神さまの言葉を聞いたとき「蜜のように甘かった」と語りました。神さまの言葉が、自分にとって蜜のように甘い。すなわち、神さまの言葉が自分にとって喜びであり、自分を生かすものである、ということが告白されています。
当たり前のことですが、説教者は、キリスト者でなければなりません。自分自身が聖書の言葉に養われていなければなりません。説教の準備は、何よりも自分自身を励まし支えるものであるとの「み言葉体験」が必要です。この聖句は、あの人に必要だ、とか、この人に語ってやろう、などということが、説教準備となってしまったら、その時点で説教者として難しくなっているのです。
しかしその「み言葉体験」から語られる説教は、自分のためと同時に、会衆のためとなります。昨日も学びましたが、教会の秩序の中で立てられた説教者は、その会衆との間に信頼と祈りをいただいています。説教者に与えられた「み言葉体験」が、同時に会衆への言葉となるのです。
「あなたは、難しい外国語を話す民にではなく、イスラエルの家に遣わされるのだ。あなたを、そのことばを聞いても分からないような、難しい外国語を話す多くの民に遣わすのではない。もし、わたしがこれらの民にあなたを遣わしたのなら、彼らはあなたの言うことを聞いたであろう。しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らがわたしの言うことを聞こうとしないからだ。イスラエルの全家は額が硬く、心が頑なだからだ。
見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔に合わせて硬くし、あなたの額を、彼らの額に合わせて硬くする。わたしはあなたの額を、火打石よりも硬いダイヤモンドのようにする。彼らを恐れるな。彼らの顔におびえるな。彼らは反逆の家なのだから。」
(5~9)
エゼキエルは、神さまからのみ言葉体験をいただき、それをイスラエルの民に語るように、神さまによって遣わされます。しかし神さまは、イスラエルの民は、あなたの言葉を聞こうとしない、と語られました。神さまに遣わされるのですから、その会衆は、自分の言葉を聞いてくれることが期待されますが、神さまは、いいや聞かない、と言われるのです。それなら遣わさんといてくれよ~、と言いたくなるのですが、それがエゼキエルの預言者としての召命の言葉でした。神さまに召されて、伝道者として立とうとしたとき、神さまから、み言葉を語りなさい、しかしあなたの言葉は誰も聞かないからね~、と約束されたら、どうでしょう。大変なことですね。ここに、伝道者としての召しとは一体何なのか、ということが語られています。伝道者は、会衆が耳を傾けようが傾けまいが、神さまのみ言葉を語る、ということを使命として与えられた者だ、ということです。会衆がよく聴いてくれるので、それに励まされて語るということは、実際問題としてありますし、ある意味では大切なことです。しかし説教が、罪人である人間の本当の救いを語ることである、とすれば、その言葉には、病巣を取り除くメスのような言葉もあるはずです。それは会衆にとっては耳ざわりのよい言葉ではないでしょう。反発も受けるかもしれません。反発を受けるからと言って語らない、とすれば、人間の本当の救いはないのですから、伝道者はどうあっても、み言葉を語らなければなりません。時に孤独を経験することもあるでしょう。非難もされるかもしれません。しかし語らなければならないのです。「彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう言われる』と彼らに言え」(11)。
神さまはイスラエルの民が、預言者エゼキエルの言葉を聞かないことをこう言われました。
「イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らがわたしの言うことを聞こうとしないからだ。」(7)。
預言者エゼキエルの言葉を聞こうとしないのは、それは神さまの言葉を聞こうとしないからだ、神さまの言葉を聞こうとしない民ので、エゼキエルよ、おまえの語る言葉を聞こうとしないのだ、と神さまはエゼキエルに語られました。さらにそのように神さまに聞こうとしない民を「額が硬い」と表現されるのですが、そのように額を硬くしたのは、神さまご自身である、と語られます。神さまが民の額を硬くされた、すなわち神さまの言うことを聞かないようにされた、というのです。それで、預言者エゼキエルの額も、民にまさる硬さの額とするといわれました。そのダイヤモンドのように硬い額を与えるので、恐れずに語れ、民が聞こうが聞くまいが語れ、と言われました。エゼキエルよ、私がおまえの面(つら)の皮を厚くしたので、相手がどうであれ、語り続けよ、というのです。伝道者は面の皮を厚くしていただいた者なのですね。伝道者の皆さん。私たちは神さまによって面の皮を厚くしていただいています!。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(第2テモテ4・2)