静まりの時 2022年10月10日(月)
申命記5・23~27
「これらのことばを、主はあの山で火と雲と暗黒の中から、あなたがたの集会全体に大声で告げられた。ほかのことは言われなかった。そして主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けてくださった。あなたがたが闇の中からその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわち、あなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちが私のもとに近づき、そして言った。
『私たちの神、主は今、ご自分の栄光と偉大さを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。今日、私たちは、神が人に語られても人が生きているのを見ました。今、なぜ私たちは死ななければならないのでしょうか。この大きい火は私たちを焼き尽くそうとしています。もしこの上なお私たちの神、主の御声を聞くなら、私たちは死んでしまいます。いったい肉なる者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者があったでしょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が言われることをすべて聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをすべて私たちに告げてください。私たちは聞いて行います。』」
(申命記5・22~27、新改訳2017)
モーセさん、あなたは、神さまの言葉を聞いてもなお生きておられます。普通、神さまの言葉を直接聞くならば、人間は死んでしまうのです。私たちが神さまのみ声を直接聞くならば絶対死んでしまいます。しかしあなたは死なれませんでした。どうか、神さまがあなたにお告げになって、そのことをすべて私たちに告げてください、私たちは神さまのお言葉をあなたを通して聞きたいと思います。そうしてそれを行いたいと思います、と。
ということで、モーセを告げて神さまのお言葉は語られることになりました。
昨日の役員会で、プロテスタント教会の「万人祭司」という考え方についてが話題となりました。ちなみに万人というのは、正確ではないですね。万人であれば、信仰をもっていない人も祭司ということになってしまいます。神学校の時には、全信徒祭司説と教わりました。
この考え方が拡大解釈されて、礼拝における説教を誰もが語ることができる、聖礼典を誰もが行うことができる、と主張されることもあるかもしれません。しかしのちに宗教改革者と呼ばれることになったルターやカルヴァンは、決して「職制」というものを否定したわけではありません。
これにまつわってのことを、雪ノ下カテキズムから引用してみたいと思います。
第二部 教会の言葉
〔問44〕 説教は、だれでも、どこででもしてかまわないのですか。
〔答〕 いいえ、できません。私が聞く説教は、教会が正規の手続きを経て教会の教師として立てた者によってなされる言葉であります。もちろん、そのような教師を欠いたときには、教会がしかるべき手続きによって代理者を立てることができます。私は、教会を信頼し、説教者を信頼します。信頼のないところでは、その言葉をも正しく聞くことは出来ません。私は説教者のために祈ります。説教を聞く私自身のために祈ります。祈りなくしては説教を聞くことはできません。
また私が説教を聞くのは、教会が主催する礼拝に出席したときです。同じ信仰の告白をすることによって結ばれ、共に教会を作る信仰の仲間とともに神を礼拝しながら神の言葉として説教を聞き、それによって、礼拝の心を与えられるのです。聖書の言葉もまた、そのような礼拝における説教を聞くことによって初めて正しく理解されるようになるのです。
(加藤常昭、『雪ノ下カテキズム』、教文館、1990年、88頁f)
聖書にまつわる良いお話しは教会でなくても聞くことができるでしょう。しかし説教は教会でなければ、そして礼拝の中でなければ聞くことができません。説教なのか、それとも単なる良いお話しなのか、その違いは、語られる内容もさることながら、最も重要なのは、誰によって語られるか、ということです。
誰、すなわち人が問題である、ということなのですが、それは語る人の能力が問題なのではありません。語る人が「教会が正規の手続きを経て教会の教師として立てた者」である、ということなのです。
モーセさんよりも、お兄さんのアロンさんのほうがよっぽどお話しが上手なので、ここはひとつアロンさんにお願いしましょう、とはならないのです。神さまに召された、ということと、そしてその召しが単に個人的な感情の高まりのようなもの、つまり主観的なものによるのではなく、教会において、正規の手続きを経て、教会の教師として立てた、ということにおける召し、です。
説教を語ることとなる人物は、聖書の知識に富んでいる、高い神学教育を受けた、お話しが上手、人柄がよい、リーダーシップがある、大きな教会を建てて来た実績を持っている、などなど、それらも大切なことではありますが、はっきりいって一切関係がありません。もちろん、教会において正規の手続きを経て教会の教師として立てるためには、このようなことも要件としてはあるかもしれません。しかしこれらを兼ね備えたからといって、説教者として語ることができるか、というと、そういうことではないということなのです。
人材不足から緊急事態として、教会において正規の手続きを経て教会の教師として立てられた人物でないかたに、説教を語っていただく場合は、それは説教とは言わず、奨励とか証詞とかいう教会も多いのではないか、と思います。
加藤先生の説教論からの引用も加えておきましょう。
「あらゆるキリスト者が真理の言葉を語るみ言葉の奉仕者でありうるのは、その人が教会に生きる限りにおいてである。そしてまた、教会に生きる者であるが故に、教会の秩序を重んじ、教会の言葉を語る者として選ばれた者でなければならないのである。そのためにこそ、宗教改革者諸文書が繰り返して語る『正しい手続き』による教師選任の重要性があるのである。そこで選ばれた者たちは、選んでくれた他の人びとに代わって、み言葉を語る職務を引き受ける。問題は、個人の権利というようなものではない。教会がみ言葉なくしては生き得ないものである限り、そのみ言葉が正しく語られる道を求めなければならないのである。」
(加藤常昭、『説教論』、日本基督教団出版局、1993年、66頁f)
教会の秩序を重んじることのない者は、説教を語るということは不可能である、ということでしょう。モーセとイスラエルの民の信頼関係、その祈りの交わりの中、神の国の秩序を重んじるお互いのなかに、神さまのお言葉は語られ、これからも語られるのです。
ちなみに教会でみ言葉、というときに、それは聖書の言葉であり、また誤解を恐れずにいうとすれば、聖書の言葉の説明、解説、です。さきほど引用した雪ノ下カテキズムの前に記されている問いを引用しましょう。
〔問43〕 神の言葉としての聖書が与えられていれば、神の真理を知るのには、既に十分なのではありませんか。それなのに、なぜ教会の言葉を聞かなければならないのですか。
〔答〕 聖書そのものが既に教会の言葉であります。イエス・キリストを証しする教会の宣教の闘いのために語られ、記録された言葉です。教会が聖書を編集し、これを正典として、自分の語る言葉の真理基準としたのは、真理を語り伝えようとすれば当然のなすべきことでありました。そして、その聖書の言葉を、教会が立てた説教者が、今ここにおける真理の言葉として解釈し、常に新しく語り直し、語り継ぐとき、今ここにおける神の言葉が、この私にも聞こえてくるのです。そこで、教会は『神の言葉についての説教が、すなわち神の言葉そのものである』(第二スイス信条)という信仰に生きてきたのであります。」
(加藤常昭、『雪ノ下カテキズム』、教文館、1990年、88頁)
イスラエルの民は神さまの言葉をモーセを通して聞くことを求めました。今日、教会は礼拝において教会が立てた説教者を通して神さまのみ言葉を聞きます。その説教者は決して強い者ではありません。むしろ弱い者です。しかしこの弱さが大切です。神さまのお言葉は、この弱さの中に語られます。もし説教者が会衆の模範となるとすれば、それは弱さの模範です。説教の言葉は、私はこんなに立派にやっているので皆さんも頑張って立派な信仰生活を歩んでください、ということではありません。弱さの中から語られる言葉、すなわち、こんな私を神さまは救って下さいました、ハレルヤ、という言葉なのです。ですから説教者には、悔い改めとへりくだり、謙遜が不可欠なのです。