静まりの時 2022年10月1日(土)
ルカ7・11~17
「イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。主はその母親を見て深くあわれみ、『泣かなくてもよい』と言われた。そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。『若者よ、あなたに言う。起きなさい。』すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。」
(ルカ7・11~17、新改訳2017)
イエスさまが、その公生涯の中で死人を生き返らせられたのは、このナインのやもめの息子、会堂司ヤイロの娘、ラザロの三人だったでしょうか。三人も生き返らせられたのですから、これで死を恐れる必要はなくなった、イエスさまといっしょにいれば死んでも生き返らせていただける、ということになったのかというと、キリスト教会はそうはなりませんでした。またこの生き返らせていただいた三人は、こののちもはや死ななくなったのかというとそうでもありません。やがて死を迎えたでしょう。一時的に生き返らせていただいた、ということですね。
イエスさまご自身も十字架の上で死なれるのですが、三日の後に復活されました。聖書をよく読むと、イエスさまが圧倒的なパワーをもって生き返られた、ということではなく、父なる神さまが復活させられた、と記されています。
死に対して、一時的なものを「生き返り」、それに対して、もはや死ぬことのないものを「復活」と区別してみたいと思います。イエスさまは信じる者は、生き返りではなく、復活の約束をいただきました。それで死を滅ぼしてくださった主にあって希望に生きることができます。単なる生き返りでは希望は生まれません。
さてここでイエスさまはやもめにたいして深いあわれみを示していてくださいます。私たちの主イエスさまはあわれみ深い神さまです。
このやもめは、イエスさまを信じたわけではありません。この死んだ息子もイエスさまへの信仰に生きていたわけではないでしょう。少なくとも聖書はそういうことを記しません。しかし神さまのあわれみを受けたのです。神さまのあわれみ、というものは、こういうものです。私たちの信仰の見返りとして神はあわれんでくださる、というのではなく、ただ泣くしかなかった、絶望しかなかった者に対して、一方的に向けられているものなのです。私たちもこの神さまのあわれみによって生かされています。また今日を生きることができるのです。
「そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。」
今もそうですが、葬儀において、出棺、という場面があります。牧師が先導し、それに続き棺、そして写真、喪主、家族などなどが続きます。牧師は、祈りをもって出発し、棺を寝台車に、そして火葬場へ導きます。その際、棺を担ぐ人たちがいます。多くは家族であったり、親しい関係者であったりします。男性の方でお願いします、と言われることも多いのですが、それは棺の重量の関係でしょう。弟の最初の子が死産で生まれたときに、私が小さな葬儀をしましたが、その時の棺は、片手で抱えられるほどに小さなものでした。しかし大人となればそうはいきません。ですから最近はストレッチャーのようなもので運び、寝台車の前まで運び、そこから数人で寝台車に乗せるという場面が多くなりました。
このやもめの死んだ息子は、イエスさまに「若者よ」と呼びかけられていますので、立派な体躯を持っていたことでしょう。棺は大人数人で抱えられていたことでしょう。悲しみの中、泣き声の中、葬列が続きます。棺を運ぶ人たちは、棺の重量をずっしりと感じながら、墓へと歩いて行きます。その時、イエスさまがその棺に手を触れられたのです。そして若者を生き返らせられました。生き返った若者は、棺から出て、母のものに向かいます。今まで涙していた母は、何が起こったのか、事態を受け入れきれない驚きの中にも喜びが沸き上がります。絶望から希望へと変えられます。
さて、空っぽになった棺の周りには、いままで棺を抱えていた数人の人たちがたたずんでいます。いったい何が起こったのか。彼らは一番近くでイエスさまのみわざを目撃しました。これ以上ないほどの不思議な体験をしました。空っぽの棺を放置しておくわけにはいかなかったでしょう。墓に向かっていた彼らは180度方向を変え、空っぽの棺を抱えて岐路につきました。彼らの間にはどのような会話が交わされたでしょう。涙の中に進んできた葬列は、イエスさまの深いあわれみのなかで、笑い声と喜びにあふれた行進となりました。その真ん中に、母と息子の姿がありました。