静まりの時 2022年9月30日(金)
第一ヨハネ4・7~12
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」
(第一ヨハネ4・10~12、新改訳2017)
新改訳2017になって、この7~10節は一字下げて表記されています。新改訳2017の「あとがき」を見ると、「段落を示すとき、一字下げたり、一行あけたりしていることには、最近に至るまでの、文章論(談話文法)や詩文研究の成果が生かされている」とあります。おそらく一字下げは詩文であろうと考えられるようになった、それはつまり「歌」あるいは「賛美歌」であったであろうと考えられるようになった、ということでしょう。初代の教会の賛美歌であった、と想像すると、この部分に簡単なメロディーをつけて歌ってもいいのかもしれません。
聖句を暗唱することは大切なことですが、賛美歌は私たちの記憶に深くとどまります。ふと口ずさみ、さまざまな場面で励まされたり、指針となったりするのではないでしょうか。
いのちの書物である聖書は愛を語ります。それは私たちにとって愛がなくてはならないものだからです。どんなに正しく生きても愛がなければ虚しいものです。知識を得て、人びとから称賛されても愛がなければ意味がありません。キリスト教は、愛の宗教です。キリスト教信仰に生きる、ということは、この愛に生きるということです。
その愛とは「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」てくださった愛のことです。その具体的な表れが十字架と復活です。私たちは、十字架の主、復活の主を見上げ神さまの愛を知らされます。そしてその愛を学びます。
この神さまの愛を知り学ぶことには、一つの方向性があります。それは互いに愛し合うという方向性です。互いに愛し合うということ。誰かが誰かに向かって一方的に愛するのではありません。互いに愛し合うのです。そのとき、そこに神さまの愛が全うされるとヨハネは語りました。
神さまは目に見えないお方です。だれも神さまを見た人はいません。しかし神さまの愛を知り神さまの愛に生きる者が、互いに愛し合うならば、そこに神さまご自身が現れていてくださる、というのです。世はその姿を見て神さまを知り神さまに出会うのだ、ということでしょう。伝道ということは、何か高尚な教えを、人びとに一方的に垂れるのでも、まだ神さまを知らない人の首根っこをひっつかまえて説得することでもありません。神さまの愛に生きる者たちが、互いに愛し合うことこそ、最大の伝道であり宣教なのです。どんなに素晴らしい教えが語られていたとしても、そこに愛の交わりがないならば、神さまはそこにとどまっておられません。神さまの愛は全うされていないのです。
互いに愛し合う、ということはいったいどういうことでしょう。それは神さまがなしてくださったことを、なぞらえることでしょう。神さまの愛とは、御子を惜しまずに与えてくださったことに表れています。自らのいのちをささげることが愛である、と聖書は語るのです。
好きという感情は大切なものです。しかしそれはときに自分の利のために「奪う」ということも辞さない愛です。しかしほんとうの愛は、好きという感情を越えて(決して好きという感情を否定することではありません)、自らをささげることです。奪う愛ではなくささげる愛なのです。
自らをささげる、自己犠牲に生きる、ということはたやすいことではありません。文字通り命を捨てるということは現実的ではないかもしれません。しかし自らの主張、こだわり、好み、あるいは、自己中心、高慢、傲慢、あるいは自己憐憫、などなど。自らを中心とすることを、捨てることは、少し大げさに言うならば、自らに死ぬことが必要でしょう。自らに死ぬことがない、あるいは自らを生かそうとする、他を差し置いて生かそうとするところの行為は、愛にはならないのです。いくら口先で愛を語ろうとも、そこには他者を破壊する暴力が生まれます。その暴力はやがては自分自身をも破壊するものとなります。
自らに死ぬといことのなかになされる愛が必要です。その愛でお互いに愛し合うこと。そこに神さまがとどまって下さる。神さまの愛が全うされるというのです。
愛に生きるときに、その愛が神さまの愛に満たされたものであるのか、それとも自己中心、自己主張であるのか。人間である限り、100パーセントはないでしょう。しかし神さまの愛に満たされていないと、どうしても自己主張の愛になるのですから、互いに愛そうとするときに、まず神さまの愛にしっかりと満たされているということがとても大切なことです。
礼拝は神さまの愛に満たされるときです。互いに愛そうとするならば、まず私たちは神さまへの礼拝に生きなければなりません。礼拝において神さまの愛に一杯に満たされて、新しい一週間に遣わされていきます。
先週のリトリートの中では、施設にある聖堂を会場にお借りして、参加者による短い時間の礼拝の時がありました。黙祷と、聖書朗読と、祈りのみの礼拝でした。神さまの愛に出会う時でした。またカトリックの施設ですので、聖堂では毎朝ミサが行われています。司祭がこれないミサでしたので、シスターが集会祭儀と言われたでしょうか、執り行って下さいました。黙祷とみことばの交唱、成句による祈り(つまり自由祈祷ではないということです)、主の祈り・・・。短い言葉の中に、神さまの愛にお出会いします。もちろん私たちはプロテスタントですので、聖体にはあずかることができません。聖公会はあずかることができるようになったと言われていました。そのときシスターの説明によると、「上の方でのお話し合いがなされて・・・」という言い方をされていたのが印象的でした。プロテスタントは、どこか個人的な考えが優先されることを良しとすることになってしまっているところがありますが、ローマ・カトリック教会は、一つの組織として、つまりどんな田舎の小さな聖堂に集う教会であっても、一つの大きな舟の乗っているようなことなのです。プロテスタントなら、個人の考えが無視される、と反発されることかもしれません。しかし人間は罪びとなのですから、個人の主張がやたらに横行するならば、教会は混乱するだけでしょう。このシスターのことばに、私は安心感をいただきました。
この聖堂がすばらいかったです。決して巨大な礼拝堂ではありません。むしろこじんまりとした間接照明を駆使した清らかな空間でした。前にはイエスさまがはりつけにされている十字架がひとつ掲げられているだけです。他には何もありません。講壇と聖餐卓、そして聖体の安置されている箱があるだけです。会衆席は、ベンチではなく一つひとつの椅子でした。講壇は、司会台ぐらいのサイズで仰々しい飾りは何一つありません。聖堂自体がすこし薄暗いので、灯りのためにスタンドが置かれていました。聖餐卓は、ロウソクが二つ置かれていて、ミサの間ともされていました。ミサが終わると消されました。もう長く使われてきたロウソクのようで、ずいぶん小さくなっていました。ちびたロウソクにも祈りの深さを感じます。聖餐卓が聖堂の真中に置かれていて、講壇はその横に置かれています。この講壇が真中にない、ということが礼拝堂の習わしなのだと思いますが、礼拝堂が町の集会場の役目を果たすようになったころからでしょうか、講壇が真中に置かれるようになりました。私たちの教会もそうなっていますが、いちど皆で話し合ってみてもよいかもしれません。聖体が安置されている箱は、なかなか素敵なデザインの箱でした。そこに安置されているのは聖体、すなわち祈られたパンとぶどう酒、イエスさまのお身体なので、カギがかけられています。また聖体があることが明らかにされるために、赤いランプがともされています。礼拝堂のデザインは、礼拝のプログラムと同様に、便宜的ではなく神学的でなければなりませんが、神さまの愛に出会う空間としてまことに神学的で、そして清楚ということばがぴったりの礼拝堂でした。
少し早くに聖堂にはいって始まるのを待っていた時に、まえに座られた老シスターのその前の椅子にカマキリが一匹歩いていました。シスターは、しずかにチリ紙をとってつかまえ、振り返ってにこりとして、外に出してあげられました。しずかでほほえましい光景でした。